本当にそうなのでしょうか。
私たちは自分自身を、あたかも自分の外側から見るように「いま自分は怒りにとらわれているんだな」と客体として客観視することもできます。
それならば、自分のことを自分自身だと認識しているその認識そのものも、客体としての自分の認識ではないでしょうか。
つまり、私たちは自分自身を「主体」としてそのまま観ることはできないのです。
いつも私たちは客体としての自分なのです。
自分自身がもっとも不可解な存在である理由はそこにありますし、ましてや他人を理解できるなどというのは乱暴すぎるかんがえなのです。
マインドフルの練習(243)
自分の髪の毛を数本、指先でつまんで、引っ張ってみます。
強く引っ張ると抜けてしまいますが、そこまで強く引っ張る必要はありません。
が、ある程度力をいれると、頭皮が引っ張られてすこし痛みを感じるでしょう。
そのとき、自分の意識がその部分に集中していくようすを観察してみてください。
髪の毛が引っ張られ、その部分の頭皮が痛みを感じるとき、全身の注意がそこに向かっていくようすがあると思います。
指を離すと、全身の感覚はもとにもどって、ふたたび全体にゆきわたります。
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