2013年1月31日木曜日
1月31日
◎今日のテキスト
千鍾《せんしょう》の酒も少く、一句の言も多いということがある。受授が情を異にし啄《そったく》が機に違《たが》えば、何も彼《か》もおもしろく無くって、それもこれもまずいことになる。だから大抵の事は黙っているに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優《まさ》っている。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申《さる》の歳だからとて、視ざる聴かざる言わざるを尚《たっと》ぶわけでは無いが、嚢《のう》を括《くく》れば咎《とが》無しというのは古《いにしへ》からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるということを何処かの小父さんに教えられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。
――幸田露伴『平将門』より
◎音楽を聴きながら音読してみる
どんな音楽でもいいので、鳴らして聴きながらなにか文章を読んでみる。自分の読み方がなんとなくいつもとは違ったようになるのを感じるかもしれない。
詠み方が変わるのは、身体つき/身体の構えが変わるからだ。なにか音楽を聴いたとき、私たちは無意識に身体の構えが変化する。優しい音楽を聴くときには優しい身体の構えに、緊張感のある音楽を聴くときには緊張感のある身体の構えに。そしてその構えで文章を読むと、そういう音読になる。
これは音楽でなくてもいいのだが、自分がある環境のなかでなにかを読むとき、あるいは環境が変化したときに読むとき、どのように変わるのか客観的に観察してみるとおもしろい。もちろん変化は音読をしなくても観察できる。
2013年1月30日水曜日
1月30日
◎今日のテキスト
お抱え車夫の平七が、熊本の町の近郊にある有名なお寺へ連れて行ってくれた。
白川に架かっている、弓のように反《そ》った、由緒ありそうな橋まで来たとき、私は平七に橋の上で停まるように言った。この辺りの景色をしばし眺めたいと思ったのである。夏空の下で、電気のような白日の光に溢れんばかりに浸《ひた》されて、大地の色彩は、ほとんどこの世のものとは思われないほど美しく輝いていた。足下には、浅い川が灰色の石の河床の上を、さざめきながら、また音を立てて流れていて、さまざまな濃淡の新緑の影を映していた。眼前には、赤茶けた白い道が、小さな森や村落を縫うように曲がりくねり、ときに見えなくなったり、また現れたりしながら、その遙か向こう、広大な肥後平野を取り囲んでいる、高く青い峰々へと続いているのだった。
――小泉八雲 Lafcadio Hearn「橋の上で」より
◎肩こり
肩こりの原因は「これ」と一概にはいえないが、肩周辺の筋肉の血流がとどこおったり、疲労物質(乳酸など)が蓄積することで起こる。これらは運動などで血行をよくしたり、もみほぐしたりして疲労物質を取り去ることで解消されるが、呼吸法で自律神経を整えることでも予防したり解消することもできる。
そもそも自律神経のリズムが乱れ、交感神経ばかりが優位になる生活を送ることで、血管が収縮しがちになって血行がとどこおり、肩こりになりやすくなる。副交感神経を優位にすることで血流をよくし、肩こりを予防したり、解消したりすることを心がけたい。
2013年1月29日火曜日
1月29日
◎今日のテキスト
北風を背になし、枯草白き砂山の崕《がけ》に腰かけ、足なげいだして、伊豆連山のかなたに沈む夕日の薄き光を見送りつ、沖より帰る父の舟遅しとまつ逗子《ずし》あたりの童《わらべ》の心、その淋しさ、うら悲しさは如何あるべき。
御最後川の岸辺に茂る葦《あし》の枯れて、吹く潮風に騒ぐ、その根かたには夜半《よわ》の満汐《みちしお》に人知れず結びし氷、朝の退潮《ひきしお》に破られて残り、ひねもす解けもえせず、夕闇に白き線を水《み》ぎわに引く。もし旅人、疲れし足をこのほとりに停《と》めしとき、何心《なにごころ》なく見廻わして、何らの感もなく行過ぎうべきか。見かえればかしこなるは哀れを今も、七百年の後にひく六代御前《ろくだいごぜん》の杜《もり》なり。木《こ》がらしその梢《こずえ》に鳴りつ。
――国木田独歩「たき火」より
◎音読のスピード
文章を読むとき、どのくらいの速さで読むといいのかと聞かれることがある。人はそれぞれ、勝手な判断で、このくらいのスピードがよい、とあまり根拠のない基準を持っているのだが、まずその勝手な基準を捨ててみてはどうだろう。
だれかが音読するのを聞いて「それ速すぎる」とジャッジしてしまうことがあるが、実際に本人に聞いてみるといい。「本当はゆっくり読みたかったのについ速くなってしまった」のか「速く読むのが好き」なのか、聞いてみなければわからない。
2013年1月28日月曜日
1月28日
◎今日のテキスト
わたしは庭に降りて毛虫を探し、竹棒でそれをつきころしていた。それは丁度、若葉が風にゆらいでいきいきとしており、モスの着物が少しあつすぎる入梅前のこと、素足にエナメル草履の古いのをつっかけて庭掃除に余念がなかった。毛虫は、ほんの二坪位の庭より十匹余りも出て来た。石のくつぬぎに行儀よく並べた死骸を又丁寧に一匹ずつ火の中に放りこもうとして紙屑を燃やした。紙屑は、図案のかきつぶしである。めらめらと燃えるたくさんの和紙の中に、毛虫共は完全に命を終えた。その時、私は夫のことを思い出した。戦争に征って四年、とうとうそのシベリヤにたおれてかえらぬ身となってしまったのである。急性肺炎で病死したという報をきいたのは去年の秋であった。
――久坂葉子「入梅」より
◎集中するということ(二)
私たちが受けてきた学校教育では「集中」というと、まわりがなにが起ころうと、なにが聞こえようと、それをシャットアウトして自分がやっていることにのめりこむようにいわれた。しかしそれは「執着」であって、「集中」とはちがう。
理想的な集中のコツは、外側から流れこんでくるさまざまな情報にたいして自分の感覚をひらき、それらを遮断せず受け入れて身を任せることだ。そうやって刺激や情報が自分のなかを流れるままに任せておきつつ、自分がおこなっていることに執着せずに集中する。このフロー状態に入れるようになると、時間の流れる感覚も変化してくる。ホームランを打つときの野球選手がボールが止まって見えたといい、ボクシングの選手がパンチを紙一重でかわす瞬間の濃密な時間感覚がやってくる。
2013年1月27日日曜日
1月27日
◎今日のテキスト
青き葉の銀杏《いちょう》の林、
細《ほそ》らなる若樹《わかき》の林。
はた、青き白日《ひる》の日かげに、
葉も顫《ふる》ふ銀杏の林。
そのもとを北へかすめる、
ひややけき路《みち》のひとすぢ、
かすかにも胡弓《こきゅう》まさぐり、
ゆめのごと、われはたどりぬ。
――北原白秋『第二邪宗門』「青き葉の銀杏のはやし」より
◎集中するということ(一)
仕事にせよ勉強にせよ、あるいは音読にせよ、なにかを集中してやろうとするとき、雑念や物音や余計な刺激を「排除」しようとしたり、無視してなかったことにして、そのものごとだけに心を向けようとする。それがなかなかうまくいかないことはだれもが経験のあることだろう。
それは「集中」ではなく「執着」といいかえることができる。本当の集中とは、自分がおこなっていることを完全に把握していながら、まわりから入ってくる情報もシャットアウトすることなく気づいていて、そちらにも対応できる柔軟なリラックスした状態を保っているときに起こる。これを「フロー状態」といったりもする。
2013年1月26日土曜日
1月26日
◎今日のテキスト
雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ。お話しましょ。
むかしむかしよ。
燃えろよ、ペチカ。
雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ。おもては寒い。
栗や栗やと
呼びます。ペチカ。
雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ。じき春来ます。
いまに楊も
萌えましょ。ペチカ。
――北原白秋「ペチカ」より
◎星を見る
私が育った日本海側の山間部では、冬の季節は雪雲が垂れこめていることが多く、めったに晴れた夜空を見ることがなかったけれど、それでも何日かはあった。東京では毎日のように晴れた夜空を見ることができるが、街が明るくて星はあまり見えない。
昨夜はよく晴れあがって、星がいつもより見えた。月が満月前で明るいにも関わらず、夜10時ごろには南の空にオリオン座がくっきりと見えた。冬の大三角形であるオリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウスもはっきりと見えた。いま一番明るいのではないかと思われる木星も、オリオン座の南側に輝いている。
星空を見るとき、マインドフルネスになるのは私だけではないだろう。
2013年1月25日金曜日
1月25日
◎今日のテキスト
いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。東京の状況がそうさせるのである。仮に生きた鮎が手に入るとしても、素人《しろうと》がこれを上手に串に刺して焼くということはできるものではない。
鮎といえば、一般に水を切ればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、鮎は俎上《そじょう》にのせて頭をはねても、ぽんぽん躍《おど》り上がるほど元気溌剌《はつらつ》たる魚だ。そればかりか、生きているうちはぬらぬらしているから、これを掴《つか》んで串に刺すということだけでも、素人には容易に、手際よくいかない。まして、これを体裁よく焼くのは、生やさしいことではない。
――北大路魯山人「鮎の食い方」より
◎メール
最近、パリに旅行してきた、という人の話を聞いた。
気がついたのは、メトロに乗ったとき、だれもケータイをいじっていなかったこと。メールを読んだり書いたり、ゲームをしたり、ということをだれもしていなかった。日本では地下鉄や電車に乗れば、ご存知のようにほぼ全員がケータイをいじっている。「いまここ」にあらず、どこかにいるだれかといまではないことの情報を交換している。
どちらがいい、とか、悪い、という話ではない。おなじ地球上でも、地域によってこれだけ人々のふるまいがちがっている、ということだ。
2013年1月24日木曜日
1月24日
◎今日のテキスト
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。我が国は大日本帝国《だいにっぽんていこく》なのか、日本国《にほんこく》なのか、またこれを口にするに或いはニッポンと云い、或いはニホンと云い、外国人はジャパンとも、ヤポンなどとも云っているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言うにあったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な次第ではあるが、外国人とも交渉が少く、また主として漢字に依拠した時代にあっては、それでもさして不都合を感ずる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。
――喜田貞吉「国号の由来」より
◎歩いた!
昨日は髪を切りに行くついでに、ふと思い立って歩いてみることにした。
私が住んでいるのは下北沢。いつも髪を切ってもらう店は外苑前。電車では井の頭線で渋谷まで4駅。渋谷から外苑前までは地下鉄で2駅。けっこうな距離のように思えるし、これまで歩くという発送はまったく起こらなかったが、距離にしてみればざっと6キロか7キロくらい。歩くにはめちゃくちゃ遠いというほどの距離でもない。
たぶん1時間15分くらいだろうと思って歩いてみたら、実際には1時間半くらいかかったが、ひさしぶりにたくさん歩いて気持ちがよかった。さすがに帰りは電車に乗ったけれど。
マインドフルな時間をたっぷりすごして、リフレッシュできたように思う。
2013年1月23日水曜日
1月23日
◎今日のテキスト
封建的、鎖国的な旧日本の文化は、所謂「能」と「歌舞伎」とを今日に残した。この二つの珍奇な演劇種目《ジャンル》は、それぞれ長い伝統の上に築かれた特殊の美を誇っており、一つは、貴族的、武士的な趣味を、一つは民衆的、市井的な趣味を代表し、現在においても、熱心な支持者をもっている。
およそ世界の舞台芸術を通じて、人間の創造的努力が、これほど犠牲的に、ある完成のために捧げられ、「常識美」の極致を徐々に、無意識に築き上げた例はないのであって、その点、民族的なもの或は時代的なものと、個人的なもの或は天才的なものとを、その中で区別することははなはだ困難なのである。
旧日本文化の特色は、道徳的、宗教的ではあったが、哲学的でも科学的でもなかった。西洋文明の移入は、恐らく芸術の分野において、最も相容れない二つの潮流を形づくる結果になった。音楽、美術、舞踊、そして文学、いずれも、そうである。
――岸田國士「現代日本の演劇」より
◎食べ物についてのひとりごと
なるべく食べ物は畑や農場や市場から買いたい。工場で作られた食品は口にいれたくない。たとえそれがただ冷凍してパッケージにしただけのものであっても。工場で作られたものではなく、人が育て、近所から運んできたものを食べたい。
2013年1月22日火曜日
1月22日
◎今日のテキスト
元禄という年号が、いつの間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。
都では、春の匂いがすべての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑《まだら》に消え残っていた叡山《えいざん》の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮んでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴えて行った。
鴨《かも》の河原には、丸葉柳《まるはやなぎ》が芽ぐんでいた。その礫《こいし》の間には、自然咲の菫《すみれ》や、蓮華《れんげ》が各自の小さい春を領していた。河水は、日増《ひまし》に水量を加えて、軽い藍色《あいいろ》の水が、処々の川瀬にせかれて、淙々《そうそう》の響を揚げた。
――菊池寛「藤十郎の恋」より
◎まだ起こってもいないことを心配してしまう
ひさしぶりに地震で目がさめた。震源は茨城県で、東京では震度2程度だったと思う。
最初の小刻みな揺れで目がさめて、それが徐々に大きくなっていくのを感じながら、さらに大きくなって大地震になったらどうするかと考えながら服を着た。
活断層に覆われている日本列島に住んでいるかぎり、どこにしても大地震の心配はある。かといって、その心配ばかりしながら暮らしているのはつまらない。いまこの瞬間にはなにも起こっていないわけだから、寝ていても起きていても、いつでもそれに対処できるように心身を良好な状態にしておきたい。いらぬ心配をすることで、心身が萎縮し、いざというときに自分の能力が発揮できないような状態にはしておきたくない。
元禄という年号が、いつの間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。
都では、春の匂いがすべての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑《まだら》に消え残っていた叡山《えいざん》の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌が、くっきりと大空に浮んでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴えて行った。
鴨《かも》の河原には、丸葉柳《まるはやなぎ》が芽ぐんでいた。その礫《こいし》の間には、自然咲の菫《すみれ》や、蓮華《れんげ》が各自の小さい春を領していた。河水は、日増《ひまし》に水量を加えて、軽い藍色《あいいろ》の水が、処々の川瀬にせかれて、淙々《そうそう》の響を揚げた。
――菊池寛「藤十郎の恋」より
◎まだ起こってもいないことを心配してしまう
ひさしぶりに地震で目がさめた。震源は茨城県で、東京では震度2程度だったと思う。
最初の小刻みな揺れで目がさめて、それが徐々に大きくなっていくのを感じながら、さらに大きくなって大地震になったらどうするかと考えながら服を着た。
活断層に覆われている日本列島に住んでいるかぎり、どこにしても大地震の心配はある。かといって、その心配ばかりしながら暮らしているのはつまらない。いまこの瞬間にはなにも起こっていないわけだから、寝ていても起きていても、いつでもそれに対処できるように心身を良好な状態にしておきたい。いらぬ心配をすることで、心身が萎縮し、いざというときに自分の能力が発揮できないような状態にはしておきたくない。
2013年1月21日月曜日
1月21日
◎今日のテキスト
祖父は泉水の隅の灯籠《とうろう》に灯を入れてくるとふたたび自分独りの黒く塗った膳の前に胡坐《あぐら》をかいて独酌《どくしゃく》を続けた。同じ部屋の丸い窓の下で、虫の穴がところどころにあいている机に向って彼は母からナショナル読本を習っていた。
「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」と。母は静かに朗読した。竹筒の置ランプが母の横顔を赤く照らした。
「スピンアトップ・スピンアトップ・スピンスピンスピン――回れよ独楽《こま》よ、回れよ回れ」と彼の母は続けた。
「勉強がすんだらこっちへ来ないか、だいぶ暗くなった」と祖父が言った。母はランプを祖父の膳の傍に運んだ。彼は縁側へ出て汽車を走らせていた。
「純一や、御部屋へ行って地球玉を持ってきてくれないか」と祖父が言った。彼は両手で捧げて持ってきた。祖父は膳を片づけさせて地球儀を膝の前に据えた。祖母も母も呼ばれてそれを囲んだ。彼は母の背中に凭《よ》りかかって肩越しに球を覗《のぞ》いた。
――牧野信一「地球儀」より
◎音読療法関連の本
ブラウザの検索窓で「ボイスセラピー・ハンドブック」および「共感的コミュニケーション入門 電子書籍」と入力すると、これらの本の情報が出てくる。
ePubやPDF、Kindle形式で電子書籍としてダウンロードしたり、ブラウザやアプリ経由で読める電子閲覧書籍になっていたり、あるいは紙のオンデマンド書籍として注文もできる。どうぞご利用いただきたい。
2013年1月20日日曜日
1月20日
◎今日のテキスト
暖くなりしためか、静養の結果か、営養の補給十分なりしためか、痩せゐることは変りなきも、この数日総体に体力のやや恢復せるを覚ゆ。室内の歩行に杖を用ひず、階上への上り下りにも、さまで脚のだるきを感ぜず。別冊「歌日記」、余白なくなりたるを機会に、今日より新たなる冊子に詩歌を書きゆき、題名も新たに「枕上浮雲」となす
葉がくれの青梅ひびに目立ちつつやまひおこたるきざし見えそむ
人の書きし米国地理を見てあれば行きて住みたき心地こそすれ
尋《と》めゆきて死所と定めむ天竜の峡《かひ》ちかき村清水湧くところ(原君、飯田市より二三里を距てたる山本村の清水に疎開し来れと誘はるるにより、かかる夢あり)
――河上肇『枕上浮雲』
◎続・下痢止め薬
そういえば昨日・今日とセンター試験だった。下痢止め薬は受験生が使うらしい。気になったので、副作用などがないものかちょっと調べてみた。
最近は「必要があって下痢が発生するので、むやみに下痢を止めてはいけない」という考え方も一般的になってきたが、過敏性腸症候群、消化不良、冷えや生理による下痢は、下痢止めを使ってもいいという医者はいるようだ。
下痢止めの主成分は、クレオソート、塩酸ロペラミド、タンニン酸ベルべリンなど。これらは化学物質(薬物)なので、もちろん副作用がないわけではない。主たる副作用には便秘があり、お年寄りは閉塞性腸炎の危険性もある。これは敗血症に至れば命にも関わることになる。という情報を友人の医師からもらった。
2013年1月19日土曜日
1月19日
◎今日のテキスト
雪やこんこ あられやこんこ
降っては降っては ずんずん積もる
山も野原も わたぼうしかぶり
枯木残らず 花が咲く
雪やこんこ あられやこんこ
降っても降っても まだ降りやまぬ
犬は喜び 庭かけまわり
猫はこたつで丸くなる
――文部省唱歌(作者不詳)「雪」
◎下痢止め薬
駅や電車の車内広告でやたらと下痢止め薬の広告が目につく。水なしで飲めるだの、すぐに効くだの、さまざまな種類の薬が広告を打っているのだが、ふと「そんなにみんな下痢ぎみなんだろうか」と思った。そんなに需要があるのだろうか。
思い返してみれば、子どものころ、学校に行くのが嫌なときなど、本当にお腹が痛くなって下痢してしまうことがあった。ひょっとして、あの現象の大人版なのだろうか。
となると、薬物に頼るより、メンタル面のケアをしたほうがいいのではないか。呼吸法と共感的コミュニケーションを含む音読療法で乗りきれるような気がしてきた。
2013年1月18日金曜日
1月18日
◎今日のテキスト
ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨《おお》きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳《いんえい》を持っていた。そしてその尨大《ぼうだい》な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠《ぼうばく》とした悲哀をその雲に感じさせた。
――梶井基次郎「蒼穹」より
◎自分の身体に訊く
自分の体重の変化を知ることは大切なことかもしれないが、数字を気にしすぎるのもよくない。
最近体調がよくないな、疲れがたまっているな、と感じているのに、体重計に乗ってみたら体重に変化はなく、むしろ増えているくらいなので、安心してしまう、という話を聞いたことがある。自分の身体からのサインを大切にせずに、体重計の数字にたよってしまうわけだ。本当なら、数値がどうであれ、体調がよくないと感じたらしっかり休むなり、栄養を取るなりしたほうがいいのに。
あるいは、体調がとてもいいのに、体重が増えていることばかり気にして無理にダイエットを敢行する人がある。体重が大切なのか、体調が大切なのか、よくかんがえていただきたい。
2013年1月17日木曜日
1月17日
◎今日のテキスト
六月半ば、梅雨晴《つゆば》れの午前の光りを浴びている椎《しい》の若葉の趣《おもむき》を、ありがたくしみじみと眺めやった。鎌倉行き、売る、売り物――三題話し見たようなこの頃の生活ぶりの間に、ふと、下宿の二階の窓から、他家のお屋敷の庭の椎の木なんだが実に美しく生々した感じの、光りを求め、光りを浴び、光りに戯れているような若葉のおもむきは、自分の身の、殊《こと》にこのごろの弱りかけ間違ひだらけの生き方と較《くら》べて何という相違だろう。人間というものは、人間生活といぅものは、もっと美しくある道理なんだと自分は信じているし、それには違いないんだから、今更に、草木の美しさを羨《うらや》むなんて、余程自分の生活に、自分の心持ちに不自然な醜さがあるのだと、此《こ》の朝つくづくと身に沁《し》みて考えられた。
――葛西善蔵「椎の若葉」より
◎ため息
なにかできごとが起き、自分の感情が動く。怒ったり悲しんだり、いらついたり、悔しがったり、あるいは喜んだり笑ったり。ひとしきり感情が動いたあとに、ふとため息をついてしまうことがあるだろう。
感情が落ちつくとため息が出る。感情が動いているときは呼吸はあまり安定していない。浅い呼吸であることが多い。感情が落ちついたとき、無意識に呼吸を落ちつかせようとため息が出るのだ。
これを逆に利用できる。感情を落ちつかせたいときは意図的にため息をつく。
ため息は吐く息だ。意図的に息を長く吐きだしてみることで、感情がみるみる落ちついてくるのがわかる。副交感神経が働いて、神経が鎮静化するからだ。
2013年1月16日水曜日
1月16日
◎今日のテキスト
正月に門松を立てる訣《わけ》を記憶している人が、今日でもまだあるでしょうか。この意義は、恐らく文献からは発見できますまい。文化を誇ったものほど早くに忘れてしもうたようです。わずかに、圏外にとり残されたごく少数の人達の間に、かすかながら伝承されている事があるので、それから探りを入れて、もう一度これをもとの姿に還し、できればその意義を考えて見たいと思うのです。
今日では、門松の形が全国的にほぼきまってしまいましたが、以前は、いろいろ違った形のものがあったのです。今日のような形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集ったために、自然とある一つの形に近づいて行ったのだと思います。あるいは、今日の形は、当時もっとも勢力のあったものの模倣であったかも知れません。
――折口信夫「門松のはなし」より
◎音読療法の三つの柱
音読療法(ボイスセラピー)には三つの柱がある。「呼吸法」「発声・音読」「共感的コミュニケーション」の三つだ。いずれもそれぞれに明確な目的があるのだが、セラピーを受ける人(クライアント)はそんなことを意識しなくても一定のプログラムにそって実施すれば、こころと身体の健康の増進、病気の予防、あるいは症状の軽減を期待できる。
一方、実施する側のボイスセラピストには明確にその目的と方法を理解しておこなってもらうようにしている。明確な目的意識と確実な手段を持っていることで、音読療法は多くの人に対して効果をあげることができる。
2013年1月15日火曜日
1月15日
◎今日のテキスト
東より順に大江橋《おおえばし》、渡辺橋《わたなべばし》、田簑橋《たみのばし》、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼらしい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚《うすぎたな》い大衆喫茶店《きっさてん》兼飯屋《めしや》がある。その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけない。それが妙《みょう》に陰気《いんき》くさいのだ。また、大学病院の建物も橋のたもとの附属《ふぞく》建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋《さび》しい。薄汚《うすよご》れている。入口の階段に患者《かんじゃ》が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょんぼりさせているのだろう。川口界隈《かわぐちかいわい》の煤煙《ばいえん》にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁《にご》っている。
――織田作之助「馬地獄」より
◎無理しなくていいですよ
音読療法で老人ホームを訪問して呼吸法などをやっていると、身体の痛みのためにうまく呼吸ができない、息を大きく吸えない、といった訴えを聞くことがしばしばある。そういうときについ「無理しなくていいですよ」「痛むならやらなくていいですよ」といってしまいがちなのだが、音読療法ではそのようないいかたはしないように努めている。
共感的コミュニケーションを使って、その人がなにを大切にしているのか推測する。
「本当はご自分もみなさんとおなじように呼吸法をやりたいのに、痛みがあってできないのがつらいんですか?」
この質問を「共感を向ける」という。
2013年1月14日月曜日
1月14日
◎今日のテキスト
故郷の冬空にもどつて来た
雨の中泥手を洗ふ
山畑麦が青くなる一本松
窓まで這つて来た顔出して青草
渚白い足出し
貧乏して植木鉢並べて居る
――尾崎放哉「選句集」より
◎緊張したときには(二)
なにかをやろうとするとき、「失敗したらどうしよう」「人からどういわれるだろうか」「けなされたらいやだなあ」といったふうに、評価基準を自分の外に置きはじめるのは、学校教育によってであり、大人になるとそういう基準でしかものごとをやれなくなる。
外部評価を気にするあまり、のびのびとやれなくなり、緊張し、結果的に普段やれていることができなくなってしまう。外部評価ではなく、自分がなにをやりたいのか、どんなことにわくわくと楽しみを感じるのか、内側にある熱いものにしっかりと目を向け、つながることで、自然に緊張はとけ、いきいきといろいろなことができるようになる。
なにかやろうとしたとき、自分がどんなことをどんなふうにやりたいのか、自分自身にもはっきりとわかるように書きだしてみるといい。
2013年1月13日日曜日
1月13日
◎今日のテキスト
信吉《しんきち》は、学校から帰ると、野菜に水をやったり、虫を駆除したりして、農村の繁忙期《はんぼうき》には、よく家《うち》の手助けをしたのですが、今年は、晩霜《ばんそう》のために、山間《さんかん》の地方は、くわの葉がまったく傷《いた》められたというので、遠くからこの辺《へん》にまで、くわの葉を買い入れにきているのであります。米の不作のときは、米の価《あたい》が騰《あ》がるように、くわの葉の価が騰がって、広いくわ圃《ばたけ》を所有している、信吉の叔父さんは、大いに喜んでいました。
信吉は、うんと叔父さんの手助けをして、お小使いをもらったら、自分のためでなく、妹になにかほしいものを買ってやって、喜ばせてやろうと思っているほど、信吉は、小さい妹をかわいがっていました。
――小川未明「銀河の下の町」より
◎緊張したときには(一)
ひと前に出てなにかをやろうとしたとき、ひどく緊張してしまって、いつもできていることがまったくできなくなったり、頭のなかが真っ白になってしまうことがある。
いまでこそ私はあまり緊張しなくなったが、かつては緊張のあまり失敗することがよくあった。いまだにはっきりおぼえているのは、小学生の時分、ピアノをひと前で弾く機会があって、そのときにひどく緊張してあがってしまい、いつもは練習で弾けている曲が出だしからめちゃくちゃになってしまって大失敗したことだ。
おさないころには思いもしないことだが、小学校も高学年になり、しかもだれかから「評価される」という音楽の世界では、他人の目が気になってそのことがいちじるしく緊張を生むようになる。
2013年1月12日土曜日
1月12日
◎今日のテキスト
文久元年の冬には、江戸に一度も雪が降らなかった。冬じゅうに少しも雪を見ないというのは、殆ど前代未聞の奇蹟であるかのように、江戸の人々が不思議がって云いはやしていると、その埋め合わせというのか、あくる年の文久二年の春には、正月の元旦から大雪がふり出して、三ガ日の間ふり通した結果は、八百八町を真っ白に埋めてしまった。
故老の口碑によると、この雪は三尺も積ったと伝えられている。江戸で三尺の雪――それは余ほど割引きをして聞かなければならないが、ともかくも其の雪が正月の二十日頃まで消え残っていたというのから推し量ると、かなりの多量であったことは想像するに難くない。少なくとも江戸に於いては、近年未曾有の大雪であったに相違ない。
――岡本綺堂「半七捕物帳 雪達磨」より
◎入眠のための呼吸法
昨夜、知り合いがネットで「横になったけどちっとも眠れないのでひさしぶりに薬を飲もうかなあ」とつぶやいていたので、呼吸法を教えてみた。
吐くことを意識する副交感神経を昂進する呼吸法で、深層筋である内肋間筋と腹斜筋群を呼吸によって収縮させる。副交感神経が昂進すれば、自動的に交感神経は沈静化し、日中の活動やストレスやいそがしい思考によって興奮した身体は鎮静していき、スムーズに入眠の態勢へとはいっていく。
簡単な仕組みなのだが、大変効果があったと今朝報告があって、うれしく思った。
2013年1月11日金曜日
1月11日
◎今日のテキスト
山の手の高台で電車の交叉点になっている十字路がある。十字路の間からまた一筋細く岐《わか》れ出て下町への谷に向く坂道がある。坂道の途中に八幡宮の境内《けいだい》と向い合って名物のどじょう店がある。拭き磨いた千本格子の真中に入口を開けて古い暖簾《のれん》が懸けてある。暖簾にはお家流の文字で白く「いのち」と染め出してある。
どじょう、鯰《なまず》、鼈《すっぽん》、河豚《ふぐ》、夏はさらし鯨《くじら》――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた。その当時はそれも目新らしかったのだろうが、中程の数十年間は極めて凡庸な文字になって誰も興味をひくものはない。ただそれ等の食品に就《つい》てこの店は独特な料理方をするのと、値段が廉《やす》いのとで客はいつも絶えなかった。
――岡本かの子「家霊」より
◎ウォーキングで呼吸法
デスクワークがつづくときにはなるべくたくさん歩くようにしている。膝に故障があって走ったり加圧トレーニングがしにくいということもあるが、冷えこんだ朝に冷気を浴びながらさくさく歩くのは気持ちがいい。
そんなときも呼吸を意識することで運動効果をたかめることができる。
歩数にあわせて「フッ、フッ、ス・ウー、フッ、フッ、ス・ウー」と四拍子で「吐く、吐く、吸う×二」を繰りかえす。
このとき、「フッ」と吐く息でお腹を意識し、できるだけ深く吐ききるようにする。すると内肋間筋と腹斜筋という身体の深層にある呼吸筋群が働いて、コアマッスルを鍛えることができる。これは呼吸力をたかめ、持続力と免疫力をたかめることにも効果がある。
2013年1月10日木曜日
1月10日
◎今日のテキスト
夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
――大杉栄「鎖工場」より
◎猫から学ぶこと
猫は子どもが嫌い、という人間によるレッテル張りがあるけれど、猫は子ども一般が嫌いなのではない。「ちいさい子どもの予測不能の動き」が怖いだけなのだ。おなじ子どもでも、予測不能な動きのすくないおとなしい子どもにはちゃんと近づいていく。
猫とちがって人間はさまざまなことにレッテル張りをして、思考停止の安楽に逃げこんでいる。これだから女はだめなんだ、とか、雨は嫌い、とか、中国はだめ、とか、ジャズが好き、とか。好き/嫌いということばの前でさまざまなニュアンスが消されている。
好き/嫌いという語法ではないものを注意深くえらびたい。日常的に完全にそうふるまうのはとてもむずかしいことではあるかもしれないけれど。
2013年1月9日水曜日
1月9日
◎今日のテキスト
理学士帆村荘六《ほむらそうろく》は、築地《つきじ》の夜を散歩するのがことに好きだった。
その夜も、彼はただ一人で、冷い秋雨《あきさめ》にそぼ濡れながら、明石町《あかしちょう》の河岸《かし》から新富町《しんとみちょう》の濠端《ほりばた》へ向けてブラブラ歩いていた。暗い雨空《あまぞら》を見あげると、天国の塔のように高いサンタマリア病院の白堊《はくあ》ビルがクッキリと暗闇に聳《そび》えたっているのが見えた。このあたりには今も明治時代の異国情調が漂っていて、ときによると彼自身が古い錦絵《にしきえ》の人物であるような錯覚《さっかく》さえ起るのであった。
――海野十三「人造人間事件」より
◎首をすくめる、肩をすくめる(二)
首をすくめるのに使う筋肉は、表層の頭板状筋と深層の頚板状筋だ。ここがリラックスできずに乳酸がたまると「首がこった」という状態になるが、一般に「肩がこる」という状態はこの「首がこる」状態のことをさしていることが多くある。
一方肩をすくめる筋肉は僧帽筋や斜角筋群などだが、こちらは意識的に緊張させたり弛緩させたりしやすい。
寒いときについ肩をすくめてしまうとき、自分がどの筋肉を収縮させているのか観察してみるといい。肩はすくめるのだが首の筋肉はゆるめておく、などということもできるはずだ。そのようにコントロールできれば、身体全体の動きやすさは確保しておける。
2013年1月8日火曜日
1月8日
◎今日のテキスト
余の住ってる町は以前は組屋敷らしい狭い通りで、多くは小さい月給取の所謂勤人ばかりの軒並であった。余の住居は往来から十間奥へ引込んでいたゆえ、静かで塵埃の少ないのを喜んでいた。処が二三年前市区改正になって、表通りを三間半削られたので往来が近くなった。道路が広くなって交通が便利になったお庇に人通りが殖えた。自働車が盛んに通るようになった。自然商店が段々殖えて来て、近頃は近所の小さな有るか無いかのお稲荷様を担ぎ上げて月に三度の縁日を開き、其晩は十二時過ぎまでも近所が騒がしい。同時に塵埃が殖えて、少し風が吹くと、書斎の机の上が忽ちザラザラする。眺望は無い方じゃ無いが、次第にブリキ屋根や襁褓の干したのを余計眺めるようになった。土地の繁昌は結構だが、自働車の音は我々を駆逐する声、塵埃の飛散は我々を吹払う風である。
――内田魯庵「駆逐されんとする文人」より
◎首をすくめる、肩をすくめる(一)
今年は寒い日がつづいている。冷えこみは例年より厳しく、街をあるいていてもついついポケットに両手を突っこんで、肩をすくめて猫背になって歩いてしまう。
なぜこの姿勢をとってしまうのだろう。おそらく首すじという外気にたいして無防備な露出部を、肩をすくめることで守ろうという動作だろう。しかし、そのとき同時にやってしまうのが、頸椎もいっしょにちぢこまらせ、頭を胴体に押しつけるような姿勢をとってしまうことだ。
実際にやってみればわかるが、この姿勢をとると著しく身体全体の動きが悪くなる。歩きもぎくしゃくなる。なにかにつまずいたようなときは非常にあぶない。肩をすくめてもいいが、首をすくめないようにするといい。
2013年1月7日月曜日
1月7日
◎今日のテキスト
段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺《かたべ》へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客というもののなかったような宿のさびしさ。
娘は茶をついで予《よ》にすすめる。年は二十《はたち》ばかりと見えた。紅蓮《ぐれん》の花びらをとかして彩色したように顔が美しい。わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房《こだいにょうぼう》の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式《てんぴょうしき》美人を見る、おおいにゆかいであった。
――伊藤左千夫「河口湖」より
◎自然治癒力(四)
ヨガを毎日つづけるのは大変だ、という人が多いかもしれない。音読療法の呼吸法でも、ヨガのポーズとおなじとはいえないまでも、ある程度の自然治癒力を強化する効果はある。
音読療法で最初におこなう「ホールブレス」はできるだけ完全に吐ききり、そこからゆっくりと細く長く吸っていって、いっぱいいっぱいまで肺をふくらませる。それを繰りかえす呼吸法だ。このとき、ふだんあまり使うことのない呼吸筋群にかなりの負荷をあたえることができる。
息を吐ききるとき、内肋間筋と、外腹斜筋・内腹斜筋・腹横筋といった深層の腹筋群をたくさん収縮させる。息を吸いきるとき、外肋間筋、横隔膜などの筋肉群をいっぱいまで収縮させる。また、吐ききるときも、吸いきるときも、みじかい時間だが呼吸を止めることになる。これは一種のヨガのポーズを取るような作用がある。
筋肉に負荷をかけ、そこからゆっくりと弛緩へともどっていく。このプロセスで自然治癒力が強化されるというのは、ヨガの原理とおなじく期待できることだ。
2013年1月6日日曜日
1月6日
◎今日のテキスト
秋が来る。山風が吹き颪す。欅や榎の葉が虚空へ群がってとびちる。谷川の水が澄みきって落栗が明らかに転びつつ流れてゆく。そうすると毎年私の好奇心が彼の大空へ連なり聳えた山々のふところへ深くもひきつけられる。というのは其の連山のふところにはさまざまの茸《たけ》が生えていて私の訪うのを待っていて呉れる。この茸は全く人間味を離れて自然の純真な心持を伝え、訪問者をして何時の間にか仙人化してしまう。その仙人化されてゆくところに私は大なる興味をおぼえ、快い笑みを浮べつつ歓喜の心を掻き抱く。私の感受性にうったうる自然の感化は山国生活の最も尊重すべき事の一つである。
――飯田蛇笏「茸をたずねる」より
◎自然治癒力(三)
意図的に身体に負荷をかけ自然治癒力をたかめようとするのが、たとえばヨガである。ヨガではかなりきついポーズを取ることが多い。身体をねじったり、関節を曲げたりのばしたり、筋肉を緊張させたり。そうやって身体に意図的な負荷をかける。ポーズをとったあとは、ゆっくりともとの姿勢へともどっていく。
負荷がかかった状態からかかっていない状態へ。この振り幅が大きければ大きいほど、自然治癒力(ホメオスタシスと呼んでいる)がたかまると経験的に知られている。
ヨガのポーズは、なかには極端な形のものもあるが、上記のようなわけなので、その人なりに負荷がかかった状態を得ることが目的なのだ。けっしてポーズの形そのものを達成することが目的ではない。なので、そのポーズができないからといってくやむ必要はまったくない。
2013年1月5日土曜日
1月5日
◎今日のテキスト
元旦正午、DC四型四発機は滑走路を走りだした。ニコニコと親切な米人のエアガールが外套を預る。真冬の四千メートルの高空を二〇度の適温で旅行させてくれる。落下傘や酸素吸入器など前世紀的なものはここには存在しない。爆音も有って無きが如く、普通に会話ができるのは流石《さすが》である。
読売社の年賀状をまくために高度六百メートルで東京を二周する。神宮と後楽園の運動場が意外に大きい。ビルディングは小さなオモチャ。機上から見た下界の物体は面積の大小しか存在しない。
第一周はみんな珍しがって窓に吸いついていたが、二周目には音がないから振りむくと、一同イスにもたれ飛行機は何百回も乗り飽いてるよとノウノウたる様子。チェッ、珍しがっているのはオレだけか。相棒の福田画伯だけセッセとスケッチしているから、私も商売。ひがむべからず。
――坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」より
◎自然治癒力(二)
こんな経験はないだろうか。忙しい日々を送っていて、ふと休暇が取れ、のんびりすごせる日がやってきた。そんなときに限って風邪をひいてしまう。
気がはっていると風邪をひかない、などといういいかたをすることもある。逆をいえば、安楽にしているとつい病気につけこまれる、ということになる。
医学的に証明するのは難しいが、たしかに気持ちがはりつめているときには病気になりにくいような気がする。つまり、免疫力も高まっているような気がする。しかしそういうときは忙しいので、身体は疲れているしストレスがかかっているのだ。
このように、こころや身体にある程度の負荷がかかっているとき、免疫力は逆にがんばって強くなっていて、病気になりにくくなっているといえるかもしれない。
2013年1月4日金曜日
1月4日
◎今日のテキスト
三浦の大崩壊《おおくずれ》を、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を屏風《びょうぶ》で劃《くぎ》った、桜山の裾《すそ》が、見も馴《な》れぬ獣《けもの》のごとく、洋《わだつみ》へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子《ずし》から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分《ころ》、人死《ひとじに》のあるのは、この辺ではここが多い。
一夏激《はげし》い暑さに、雲の峰も焼いた霰《あられ》のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって覆《こぼ》れそうな日盛《ひざかり》に、これから湧《わ》いて出て人間になろうと思われる裸体《はだか》の男女が、入交《いりまじ》りに波に浮んでいると、赫《かっ》とただ金銀銅鉄、真白《まっしろ》に溶けた霄《おおぞら》の、どこに亀裂《ひび》が入ったか、破鐘《われがね》のようなる声して、
「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。
――泉鏡花『草迷宮』より
◎自然治癒力(一)
人の身体には、なにかダメージを負っても自然に治癒する能力がそなわっている。切り傷を追っても、自然に傷がふさがって、もとどおりになってしまう。風邪をひいても、数日すれば治ってしまう。
治癒力を高めるのは、生命力を強めることにもなる。怪我や病気をしても回復が早いし、対ストレス性も強くなる。
では、どうすれば自然治癒力を高めることができるだろうか。
古代からさまざまに研究され、追求されてきた先人の技のなかにも、自然治癒力を高めるためのものがある。
2013年1月3日木曜日
1月3日
◎今日のテキスト
見よ、今日も、かの蒼空《あをぞら》に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
――石川啄木「飛行機」より
◎初夢
地震の初夢を見た。初夢にはいろいろなシンボルや意味が「こじつけられ」ているが、地震は不安や自信のなさをあらわしているらしい。私は夢占いをふくむ占い全般についてまったく気にすることはないが、一方で自分のなかに不安や自信のなさがまったくないはずはなく、むしろ認知している。
自分の不安や自信のなさをしっかりと認識することは大切で、そのことをみとめつつ、それにとらわれてパフォーマンスを低下させないためにも対処するスキルを持ちたい。すなわち、マインドフルネスによる自分の「いまここ」の意識、そして自分自身に共感することで自分が大切にしていることにしっかりとつながっていく行動。
そのことをあらためて確認させてもらった初夢であった。
2013年1月2日水曜日
1月2日
◎今日のテキスト
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子《はしご》に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧《むし》ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。
――芥川龍之介「或阿呆の一生」より
◎情報過多の時代?
現代は情報過多の時代といわれている。本当にそうなのだろうか。
たしかに世の中には情報があふれ、これでもかこれでもかとさまざまな情報が押しよせてきて、おぼれそうな気になってしまう。ついていけないと乗り遅れるんじゃないかという強迫観念すら起こることがある。
しかし、よくかんがえてみれば、これらの多くは言語情報もしくは視覚情報である。
いまのように言語情報や視覚情報があふれていなかった時代の人々は、では受け取る情報は少なかったのだろうか。たしかに言語情報、視覚情報は少なかったかもしれない。が、想像するに、感覚情報は非常にリッチだったのではないか。音、匂い、味、手触り、空気、季節感、気配。そういったものを現代人以上に豊かに受け取っていたような気がしてならない。
現代人の私たちもある程度そこへと回帰することは可能なのではないだろうか。
2013年1月1日火曜日
1月1日
◎今日のテキスト
長い影を地にひいて、痩馬《やせうま》の手綱《たづな》を取りながら、彼《か》れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚《たこ》のように頭ばかり大きい赤坊《あかんぼう》をおぶった彼れの妻は、少し跛脚《ちんば》をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。
北海道の冬は空まで逼《せま》っていた。蝦夷富士《えぞふじ》といわれるマッカリヌプリの麓《ふもと》に続く胆振《いぶり》の大草原を、日本海から内浦湾《うちうらわん》に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤《うねり》のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。
――有島武郎『カインの末裔』より
◎元日
あけましておめでとうございます。2013年のスタートです。
この「音読日めくり」は毎日音読するために使ってもらおうと思って、一年間つづけようと決めてスタートした。それが昨年2012年2月13日のことだ。今年2013年2月12日まで日めくりはつづく。
昨年は閏年だったので、一年が366日あった。この「音読日めくり」は366日分あることになる。
あと1か月半、お付き合いいただきたい。
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