◎今日のテキスト
東海《とうかい》の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬《ほ》につたふ
なみだのごはず
一握《いちあく》の砂を示しし人を忘れず
——石川啄木『一握の砂』「我を愛する歌」より
◎怒りのいくつかの様相
なにかが原因で怒りをおぼえてそれを表現しているとき、怒りの背後に怒りとは別の感情があることがある。
本人は激怒していると思っているその背後には、悲しみの感情があったり、疲れやいらだちがあったりすることがある。感情はいくつかの種類が組合わさったり、多重構造になったりしていて、表面には怒りになって表れていることが多い。
自分が怒っていると思っているとき、その奥にさらに別の感情が隠れていないか、悲しみやいらだちがないか、ちょっとゆっくり呼吸をととのえてチェックしてみる。怒りの奥にある別の感情に気づいたとき、自分自分についての理解が深まり、自分自身の面倒をよりよくみることができるようになる。
2012年4月30日月曜日
2012年4月29日日曜日
4月29日
◎今日のテキスト
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡《くりひろ》げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映《うつ》るか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤《わら》い憐《あわ》れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為《た》めにそうあらんことを祈っている。
——有島武郎「小さき者へ」より
◎身体の構えを意識する
人はさまざまな身体の「構え」を持っていて、そのつど無意識にそれを選びとっている。
たとえば上司の前で仕事の報告をするとき。たとえば部下たちに向かって訓示をたれるとき。たとえばひさしぶりに友人に会ったとき。雨上がりの森のなかで雫のしたたる樹の下にたたずんだとき。夏の海辺で陽光を反射しながら打ち寄せる波を、デッキチェアにねそべってながめるとき。
身体のなかのさまざまな部分が微細に変化して、その「構え」は作られる。
瞬間瞬間、自分がどのような身体の「構え」を選びとっているのか、そのことに意識を向けてみるのはおもしろい。自分自身のありよう(身体性ともいう)に気づく瞬間だ。
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡《くりひろ》げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映《うつ》るか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤《わら》い憐《あわ》れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為《た》めにそうあらんことを祈っている。
——有島武郎「小さき者へ」より
◎身体の構えを意識する
人はさまざまな身体の「構え」を持っていて、そのつど無意識にそれを選びとっている。
たとえば上司の前で仕事の報告をするとき。たとえば部下たちに向かって訓示をたれるとき。たとえばひさしぶりに友人に会ったとき。雨上がりの森のなかで雫のしたたる樹の下にたたずんだとき。夏の海辺で陽光を反射しながら打ち寄せる波を、デッキチェアにねそべってながめるとき。
身体のなかのさまざまな部分が微細に変化して、その「構え」は作られる。
瞬間瞬間、自分がどのような身体の「構え」を選びとっているのか、そのことに意識を向けてみるのはおもしろい。自分自身のありよう(身体性ともいう)に気づく瞬間だ。
2012年4月28日土曜日
4月28日
◎今日のテキスト
京都に足かけ十年住んだのち、また東京へ引っ越して来たのは、六月の末、樹の葉が盛んに茂っている時であったが、その東京の樹の葉の緑が実にきたなく感じられて、やり切れない気持ちがした。本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝《いんうつ》で、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら、自分の目が年のせいで何か生理的な変化を受けたのではないかと、まじめに心配したほどであった。
——和辻哲郎「京の四季」より
◎身体の構えを意識する
人はさまざまな身体の「構え」を持っていて、そのつど無意識にそれを選びとっている。
たとえば上司の前で仕事の報告をするとき。たとえば部下たちに向かって訓示をたれるとき。たとえばひさしぶりに友人に会ったとき。雨上がりの森のなかで雫のしたたる樹の下にたたずんだとき。夏の海辺で陽光を反射しながら打ち寄せる波を、デッキチェアにねそべってながめるとき。
身体のなかのさまざまな部分が微細に変化して、その「構え」は作られる。
瞬間瞬間、自分がどのような身体の「構え」を選びとっているのか、そのことに意識を向けてみるのはおもしろい。自分自身のありよう(身体性ともいう)に気づく瞬間だ。
京都に足かけ十年住んだのち、また東京へ引っ越して来たのは、六月の末、樹の葉が盛んに茂っている時であったが、その東京の樹の葉の緑が実にきたなく感じられて、やり切れない気持ちがした。本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝《いんうつ》で、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら、自分の目が年のせいで何か生理的な変化を受けたのではないかと、まじめに心配したほどであった。
——和辻哲郎「京の四季」より
◎身体の構えを意識する
人はさまざまな身体の「構え」を持っていて、そのつど無意識にそれを選びとっている。
たとえば上司の前で仕事の報告をするとき。たとえば部下たちに向かって訓示をたれるとき。たとえばひさしぶりに友人に会ったとき。雨上がりの森のなかで雫のしたたる樹の下にたたずんだとき。夏の海辺で陽光を反射しながら打ち寄せる波を、デッキチェアにねそべってながめるとき。
身体のなかのさまざまな部分が微細に変化して、その「構え」は作られる。
瞬間瞬間、自分がどのような身体の「構え」を選びとっているのか、そのことに意識を向けてみるのはおもしろい。自分自身のありよう(身体性ともいう)に気づく瞬間だ。
2012年4月27日金曜日
4月27日
◎今日のテキスト
私は草鞋《わらじ》を愛する、あの、枯れた藁《わら》で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく両足に穿《は》きしめて大地の上に立つと、急に五体の締まるのを感ずる。身体の重みをしっかりと地の上に感じ、そこから発した筋肉の動きがまた実に快く四肢五体に伝わってゆくのを覚ゆる。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身体のために動かされた四辺《あたり》の空気が、いかにも心地よく自分の身体に触れて来る。
——若山牧水『樹木とその葉』より「草鞋の話旅の話」
◎人のせいにできることはなにもない
よく人は、自分の怒りやいらだちを、自分以外の人のせいにすることがある。
だれかが待ち合わせ時間に遅刻してきた。そのせいで自分は怒っているのだ。だれかが自分の悪口をいった。そのせいで自分は悲しくなったのだ。原発が事故を起こした。そのせいで自分は危険を感じて落ち着かない。
それらすべては人のせいではなく、自分のニーズに原因がある。といったら、多くの人は反発を覚えるかもしれない。とくに原発のくだりは。
自分の感情はすべて自分のなかにあるニーズから生まれる。たとえば、相手が待ち合わせ時間に遅刻して怒っているのは、相手にたいする信頼のニーズが損なわれたからであって、遅刻した事実そのものにはなんらの罪はない。相手にもなんらかのニーズがあって遅刻したのだ。
いまここで起こっているのは、相手が遅刻したという事実と、それによって損なわれた自分自身のニーズによって引き起こされた感情があるということだ。自分自身の感情とニーズを見ることで、それを相手に「あんたのせいだ」と向けなくてもいいことに気づく。
私は草鞋《わらじ》を愛する、あの、枯れた藁《わら》で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく両足に穿《は》きしめて大地の上に立つと、急に五体の締まるのを感ずる。身体の重みをしっかりと地の上に感じ、そこから発した筋肉の動きがまた実に快く四肢五体に伝わってゆくのを覚ゆる。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身体のために動かされた四辺《あたり》の空気が、いかにも心地よく自分の身体に触れて来る。
——若山牧水『樹木とその葉』より「草鞋の話旅の話」
◎人のせいにできることはなにもない
よく人は、自分の怒りやいらだちを、自分以外の人のせいにすることがある。
だれかが待ち合わせ時間に遅刻してきた。そのせいで自分は怒っているのだ。だれかが自分の悪口をいった。そのせいで自分は悲しくなったのだ。原発が事故を起こした。そのせいで自分は危険を感じて落ち着かない。
それらすべては人のせいではなく、自分のニーズに原因がある。といったら、多くの人は反発を覚えるかもしれない。とくに原発のくだりは。
自分の感情はすべて自分のなかにあるニーズから生まれる。たとえば、相手が待ち合わせ時間に遅刻して怒っているのは、相手にたいする信頼のニーズが損なわれたからであって、遅刻した事実そのものにはなんらの罪はない。相手にもなんらかのニーズがあって遅刻したのだ。
いまここで起こっているのは、相手が遅刻したという事実と、それによって損なわれた自分自身のニーズによって引き起こされた感情があるということだ。自分自身の感情とニーズを見ることで、それを相手に「あんたのせいだ」と向けなくてもいいことに気づく。
2012年4月26日木曜日
4月26日
◎今日のテキスト
わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中《さなか》で故郷に近づくに従って天気は小闇《おぐら》くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村《あれむら》があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。
おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。
——魯迅「故郷」より(訳・井上紅梅)
◎後悔について
部屋を片付けるとかしていて、自分が昔買ったり作ったりしたものが思いがけず出てくることがあるだろう。そういうとき、「なんて無駄なものを買ったんだろう」「なんて無益なものを作ってたんだろう」と、後悔の念にさいなまれることはないだろうか。
人の不幸は「いまここ」ではない過去や、まだ起こってもいないことに思念を向けることで始まる。すぎさったことをいくら悔やんでも、不幸にこそなれ、幸せにはなれない。不幸な気分のままでは、いま現在の自分がよい仕事をすることなどできないだろう。後悔のとらわれから抜け出して「いまここ」に自分があることの幸福を味わいながら、この瞬間のことに専念する。
とはいえ、これはなかなか困難なことだ。自分自身にいい聞かせるつもりで書いている。
わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中《さなか》で故郷に近づくに従って天気は小闇《おぐら》くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村《あれむら》があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。
おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。
——魯迅「故郷」より(訳・井上紅梅)
◎後悔について
部屋を片付けるとかしていて、自分が昔買ったり作ったりしたものが思いがけず出てくることがあるだろう。そういうとき、「なんて無駄なものを買ったんだろう」「なんて無益なものを作ってたんだろう」と、後悔の念にさいなまれることはないだろうか。
人の不幸は「いまここ」ではない過去や、まだ起こってもいないことに思念を向けることで始まる。すぎさったことをいくら悔やんでも、不幸にこそなれ、幸せにはなれない。不幸な気分のままでは、いま現在の自分がよい仕事をすることなどできないだろう。後悔のとらわれから抜け出して「いまここ」に自分があることの幸福を味わいながら、この瞬間のことに専念する。
とはいえ、これはなかなか困難なことだ。自分自身にいい聞かせるつもりで書いている。
2012年4月25日水曜日
4月25日
◎今日のテキスト
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好《かっこう》なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢《しもきたざわ》という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩《も》らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇《うすやみ》の中に際《きわ》立って白く見えていた。
——横光利一「睡蓮」より
◎今日という一日を評価しない
「今日は良い日だった」「今日は充実していた」「今日は楽しかった」など、日記の最後に評価を書きつけることがよくある。ツイッターなどを見ていても、そのような評価で一日を締めくくっている人を多く見かける。
一日はただそこにある。自分がすごした時間をただ受け入れ、判断をくださない。
それだと日々の向上はないのではないか、という人がいるかもしれない。しかし、向上は反省の上に立ってあるのではない。向上はただその一瞬一瞬をマインドフルにすごし、自分のできることに専心することで生まれる。結果的に向上するのであって、向上を計画するのではない、ということだ。今日の自分より明日の自分がよりよくあるためには、今日の自分を反省するのではなく、明日一日もマインドフルにめいっぱい生きることを心がけたい。
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好《かっこう》なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢《しもきたざわ》という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩《も》らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇《うすやみ》の中に際《きわ》立って白く見えていた。
——横光利一「睡蓮」より
◎今日という一日を評価しない
「今日は良い日だった」「今日は充実していた」「今日は楽しかった」など、日記の最後に評価を書きつけることがよくある。ツイッターなどを見ていても、そのような評価で一日を締めくくっている人を多く見かける。
一日はただそこにある。自分がすごした時間をただ受け入れ、判断をくださない。
それだと日々の向上はないのではないか、という人がいるかもしれない。しかし、向上は反省の上に立ってあるのではない。向上はただその一瞬一瞬をマインドフルにすごし、自分のできることに専心することで生まれる。結果的に向上するのであって、向上を計画するのではない、ということだ。今日の自分より明日の自分がよりよくあるためには、今日の自分を反省するのではなく、明日一日もマインドフルにめいっぱい生きることを心がけたい。
2012年4月24日火曜日
4月24日
◎今日のテキスト
想えば単純な材料に過ぎない。それなのに眺めていて惹きつけられる。手漉きの和紙はいつだとて魅力に満ちる。私はそれを見つめ、それに手を触れ、言い難い満足を覚える。美しければ美しいほど、かりそめには使い難い。余ほどの名筆ででもなくば、紙を穢すことになろう。そのままでもう立派なのである。考えると不思議ではないか、只の料紙なのである。だが無地であるから、尚美しさに含みが宿るのだとも云えよう。良き紙は良き夢を誘う。私は紙の性情を思い、その運命を想い。
——柳宗悦「和紙の美」より
◎よい天気、悪い天気
よく考えると、天気にいい・悪いもない。それぞれの人の都合で、その天気が「よい」だの「悪い」だの、勝手な判断をしているにすぎない。
雨が降ると「天気が悪い」という人もいれば、「恵みの雨だ」と思う人もいる。
世の中の事象はすべて、実はあるがままあるのであって、それをいいだの悪いだの判断して一喜一憂しているのは、人間の勝手な思考である。ただありのまま受け入れて、それを味わうことができれば、人の短い人生もどれだけ豊かなものになるだろうか。
想えば単純な材料に過ぎない。それなのに眺めていて惹きつけられる。手漉きの和紙はいつだとて魅力に満ちる。私はそれを見つめ、それに手を触れ、言い難い満足を覚える。美しければ美しいほど、かりそめには使い難い。余ほどの名筆ででもなくば、紙を穢すことになろう。そのままでもう立派なのである。考えると不思議ではないか、只の料紙なのである。だが無地であるから、尚美しさに含みが宿るのだとも云えよう。良き紙は良き夢を誘う。私は紙の性情を思い、その運命を想い。
——柳宗悦「和紙の美」より
◎よい天気、悪い天気
よく考えると、天気にいい・悪いもない。それぞれの人の都合で、その天気が「よい」だの「悪い」だの、勝手な判断をしているにすぎない。
雨が降ると「天気が悪い」という人もいれば、「恵みの雨だ」と思う人もいる。
世の中の事象はすべて、実はあるがままあるのであって、それをいいだの悪いだの判断して一喜一憂しているのは、人間の勝手な思考である。ただありのまま受け入れて、それを味わうことができれば、人の短い人生もどれだけ豊かなものになるだろうか。
2012年4月23日月曜日
4月23日
◎今日のテキスト
へんぽんと ひるがえり かけり
胡蝶は そらに まいのぼる
ゆくてさだめし ゆえならず
ゆくて かがやく ゆえならず
ただひたすらに かけりゆく
ああ ましろき 胡蝶
みずや みずや ああ かけりゆく
ゆくてもしらず とももあらず
ひとすじに ひとすじに
あくがれの ほそくふるう 銀糸をあえぐ
——八木重吉『秋の瞳』より「胡蝶」
◎「おいしくなーれ」の呪文
料理が上手な人にそのコツを聞いてみたところ、「おいしくなーれととなえながら料理する」と答えられたことがあります。笑ってしまったんですが、あとでふとかんがえて、それはまさにマインドフルネスの実践であることに気づいた。
「いまここ」に意識を向けることで、料理を作るプロセスが丁寧になるということはあるでしょう。「おいしくなーれ」ととなえて心を料理作りに向けつづけることは、マインドフルネスの実践そのものであり、そのことが結果的に料理をおいしくするのかもしれない。
へんぽんと ひるがえり かけり
胡蝶は そらに まいのぼる
ゆくてさだめし ゆえならず
ゆくて かがやく ゆえならず
ただひたすらに かけりゆく
ああ ましろき 胡蝶
みずや みずや ああ かけりゆく
ゆくてもしらず とももあらず
ひとすじに ひとすじに
あくがれの ほそくふるう 銀糸をあえぐ
——八木重吉『秋の瞳』より「胡蝶」
◎「おいしくなーれ」の呪文
料理が上手な人にそのコツを聞いてみたところ、「おいしくなーれととなえながら料理する」と答えられたことがあります。笑ってしまったんですが、あとでふとかんがえて、それはまさにマインドフルネスの実践であることに気づいた。
「いまここ」に意識を向けることで、料理を作るプロセスが丁寧になるということはあるでしょう。「おいしくなーれ」ととなえて心を料理作りに向けつづけることは、マインドフルネスの実践そのものであり、そのことが結果的に料理をおいしくするのかもしれない。
2012年4月22日日曜日
4月22日
◎今日のテキスト
伸子は両手を後にまわし、半分明け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリヤの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込《とじこみ》、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挾んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯《じゅうたん》の上へ落ちている。
——宮本百合子『伸子』より
◎「んー」から「あー」
息を全部吐ききってから、自然にゆっくりと鼻から肺に空気を呼びこみ、その息を使って声を出す。
最初は口を閉じたまま、いわゆる「ハミング」という発声法で鼻から「んー」と長く声を出してみる。ハミングしながらゆっくりと息を出しきっていく。
ハミングで息を全部吐ききったら、ふたたび自然にゆっくりと鼻から肺に空気をいれ、今度はハミングの状態から「アゴが自然にゆるんで下にさがる」ように意識しながら口をあけ、「あー」という発声に以降する。できるだけ全身の力を抜き、アゴも「ぽかーん」としたときのようにだらしなくあけ、自然な身体の状態にまかせて「あー」という声を息に乗せていく。身体のなかに振動が生まれ、そこに意識を向けることでマインドフルネスを容易に実現できる。
伸子は両手を後にまわし、半分明け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリヤの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込《とじこみ》、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挾んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯《じゅうたん》の上へ落ちている。
——宮本百合子『伸子』より
◎「んー」から「あー」
息を全部吐ききってから、自然にゆっくりと鼻から肺に空気を呼びこみ、その息を使って声を出す。
最初は口を閉じたまま、いわゆる「ハミング」という発声法で鼻から「んー」と長く声を出してみる。ハミングしながらゆっくりと息を出しきっていく。
ハミングで息を全部吐ききったら、ふたたび自然にゆっくりと鼻から肺に空気をいれ、今度はハミングの状態から「アゴが自然にゆるんで下にさがる」ように意識しながら口をあけ、「あー」という発声に以降する。できるだけ全身の力を抜き、アゴも「ぽかーん」としたときのようにだらしなくあけ、自然な身体の状態にまかせて「あー」という声を息に乗せていく。身体のなかに振動が生まれ、そこに意識を向けることでマインドフルネスを容易に実現できる。
2012年4月21日土曜日
4月21日
◎今日のテキスト
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云《い》われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊《つる》した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指《さ》しながら、みんなに問《とい》をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
——宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より
◎人の呼吸を感じる
「沈黙の朗読」という公演をおこなった。そのときの参加者の感想で「沈黙になったとき自分以外の人の息をする気配を感じて、自分の呼吸にも意識が向かった」というものがあった。まさにマインドフルの状態になったのだ。
朗読は「沈黙の朗読」でなくても、音のない時間がとても多い。「間合い」と呼ばれる時間は沈黙している時間だといっていいだろう。音楽はかなり静かな演奏だとしても、音はほとんど途切れることなく続いている。音と音の間に沈黙があるとき、人はさまざまなことを感じ、いろいろなイメージを想起するらしい。
ノリノリの音楽ライブや公演もいいが、たまにはとても静かな朗読公演を聴きにいってみるのもいい。
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云《い》われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊《つる》した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指《さ》しながら、みんなに問《とい》をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
——宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より
◎人の呼吸を感じる
「沈黙の朗読」という公演をおこなった。そのときの参加者の感想で「沈黙になったとき自分以外の人の息をする気配を感じて、自分の呼吸にも意識が向かった」というものがあった。まさにマインドフルの状態になったのだ。
朗読は「沈黙の朗読」でなくても、音のない時間がとても多い。「間合い」と呼ばれる時間は沈黙している時間だといっていいだろう。音楽はかなり静かな演奏だとしても、音はほとんど途切れることなく続いている。音と音の間に沈黙があるとき、人はさまざまなことを感じ、いろいろなイメージを想起するらしい。
ノリノリの音楽ライブや公演もいいが、たまにはとても静かな朗読公演を聴きにいってみるのもいい。
2012年4月20日金曜日
4月20日
◎今日のテキスト
家の者が、「座右寶」に梅原氏の絵が出ていると言うので、私はさわらせて貰った。さわってみても私に絵がわかる筈はないが、それでもやはりさわってみたい。いろいろと説明を聞きながらさわっている中に、子供の時に見た絵を想像した。
子供の時に見た絵を思い出してみると、主に人物で、景色の絵などはかすかである。私の前にお膳があるとか、茶碗がのっているとか、火鉢があるということがわかると、みんな見えているように思うが、それが昔見た想像である。しかし、さわってみてもあまり見当は違っていない。
——宮城道雄「春雨」より
◎朗読という音楽
朗読や音読というと、物語や言葉を伝える、ということに主眼が置かれることが多いが、それ以前に音であるということにも注目した。
人の声はなぜ心地よかったり、あるいは耳障りだったりするのだろう。その声が「意味」を伝える以前に、その声そのものが持つ音程、音質、リズム、強弱といった要素に気を配ってみると、朗読という表現行為は音楽演奏にも似ていることに気づく。
声をあげてなにかを読むとき音楽を演奏すると思って読んでみてはどうだろう。そうするとどんなことに気づくだろうか。なにが変わるだろうか。
家の者が、「座右寶」に梅原氏の絵が出ていると言うので、私はさわらせて貰った。さわってみても私に絵がわかる筈はないが、それでもやはりさわってみたい。いろいろと説明を聞きながらさわっている中に、子供の時に見た絵を想像した。
子供の時に見た絵を思い出してみると、主に人物で、景色の絵などはかすかである。私の前にお膳があるとか、茶碗がのっているとか、火鉢があるということがわかると、みんな見えているように思うが、それが昔見た想像である。しかし、さわってみてもあまり見当は違っていない。
——宮城道雄「春雨」より
◎朗読という音楽
朗読や音読というと、物語や言葉を伝える、ということに主眼が置かれることが多いが、それ以前に音であるということにも注目した。
人の声はなぜ心地よかったり、あるいは耳障りだったりするのだろう。その声が「意味」を伝える以前に、その声そのものが持つ音程、音質、リズム、強弱といった要素に気を配ってみると、朗読という表現行為は音楽演奏にも似ていることに気づく。
声をあげてなにかを読むとき音楽を演奏すると思って読んでみてはどうだろう。そうするとどんなことに気づくだろうか。なにが変わるだろうか。
2012年4月19日木曜日
4月19日
◎今日のテキスト
近頃私は死というものをそんなに恐しく思わなくなった。年齡のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。
思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。墓に詣でても、昔のように陰惨な気持ちになることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原学には関係がない)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり言い表わしていることを思うようになった。
——三木清『人生論ノート』より
◎音楽を聴くことと音を聴くこと
私たちは音楽を聴くとき、そのメロディであるとか、ハーモニーであるとか、リズムなどを味わう。いわゆる楽譜に書かれた要素を聴き取り、それを解釈して楽しんでいる。が、実際には音楽のなかには楽譜に記載することのできないさまざまな音の要素が含まれている。
たとえば演奏者の呼吸。呼気の水蒸気が水に還元されて管楽器の管にたまってブツブツいう音。ピアノの鍵盤やペダルのカタカタいう音。トランペットのバルブの上下する音。咳払い。指揮者の指揮棒が指揮台に打ちあたる音。クラリネットが裏返ってしまった音。そういった音も実は音楽の一部なのだということを、私たちは忘れている。
ときにはそういった音だけに注意を向けて、ふだん忘れていることをいちいち思い出してみるのもいいかもしれない。
近頃私は死というものをそんなに恐しく思わなくなった。年齡のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。
思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。墓に詣でても、昔のように陰惨な気持ちになることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原学には関係がない)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり言い表わしていることを思うようになった。
——三木清『人生論ノート』より
◎音楽を聴くことと音を聴くこと
私たちは音楽を聴くとき、そのメロディであるとか、ハーモニーであるとか、リズムなどを味わう。いわゆる楽譜に書かれた要素を聴き取り、それを解釈して楽しんでいる。が、実際には音楽のなかには楽譜に記載することのできないさまざまな音の要素が含まれている。
たとえば演奏者の呼吸。呼気の水蒸気が水に還元されて管楽器の管にたまってブツブツいう音。ピアノの鍵盤やペダルのカタカタいう音。トランペットのバルブの上下する音。咳払い。指揮者の指揮棒が指揮台に打ちあたる音。クラリネットが裏返ってしまった音。そういった音も実は音楽の一部なのだということを、私たちは忘れている。
ときにはそういった音だけに注意を向けて、ふだん忘れていることをいちいち思い出してみるのもいいかもしれない。
2012年4月18日水曜日
4月18日
◎今日のテキスト
鵙《もず》の声が鋭くけたたましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空ででもあるかのようにちかぢかと澄んで耳を突く。きょうは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下はまだ朝霧が立ちこめていたが、芋畑の向方《むこう》側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射《さ》して、栗拾いに駈けてゆく子供たちの影があざやかだった。そして見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しそうだった。芋の収穫はもうよほど前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で、光が流れるに従って白い煙が揺れた。
——牧野信一「鬼涙村」より
◎意識して服を着る
知人から聞いた話だが、和装をするときには着付けの手順をひとつひとつ確認しながら着るので、自分の身体のことをとても意識するのだそうだ。ということは、和装でなくても、普段、洋服を着るときにも、手順をきちんと意識すればいいのではないか。
服を着るときの手順はほとんど決まってしまっているので、ほぼ無意識にやっている人が多いのではないだろうか。自分がどのような手順で服を着ているのか、そのとき自分の身体の感覚はどうなっているのか、あらためて意識を向け直してみるのはどうだろう。
鵙《もず》の声が鋭くけたたましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空ででもあるかのようにちかぢかと澄んで耳を突く。きょうは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下はまだ朝霧が立ちこめていたが、芋畑の向方《むこう》側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射《さ》して、栗拾いに駈けてゆく子供たちの影があざやかだった。そして見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しそうだった。芋の収穫はもうよほど前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で、光が流れるに従って白い煙が揺れた。
——牧野信一「鬼涙村」より
◎意識して服を着る
知人から聞いた話だが、和装をするときには着付けの手順をひとつひとつ確認しながら着るので、自分の身体のことをとても意識するのだそうだ。ということは、和装でなくても、普段、洋服を着るときにも、手順をきちんと意識すればいいのではないか。
服を着るときの手順はほとんど決まってしまっているので、ほぼ無意識にやっている人が多いのではないだろうか。自分がどのような手順で服を着ているのか、そのとき自分の身体の感覚はどうなっているのか、あらためて意識を向け直してみるのはどうだろう。
2012年4月17日火曜日
4月17日
◎今日のテキスト
けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た。
実は――きのうひさしぶりで町へ下りて菓子でも買って帰ろうとしたら、何処の店ももう大概引き上げたあとで、漸《や》っと町はずれのアメリカン・ベエカリイだけがまだ店を開いていたので、飛び込んだら、欲しいようなものは殆ど何も無かった、木目菓子《バウム・クウヘン》の根っこのところだけ、それも半欠けになって残っていたが、いくら好きでも、これにはちょっと手を出し兼ねていた。そこへよく見かける一人の老外人がはいって来た。この店のお得意だと見え、「おやおや、お菓子、もうなんにも無いですね……」と割に流暢な日本語で店の売子に言葉を掛けながら、私の手を出しかねていたバウム・クウヘンを指して、「これは鼠が噛《かじ》ったのですか?」などと常談さえ云う。
——堀辰雄「晩夏」より
◎足の裏
足の裏にはたくさんのツボがあって、それは全身に対応している。その関係を称して「反射区」といったり、英語では「リフレクソロジー」といったりしている。
足ツボを刺激するのは健康にも有益だが、足の裏を意識するのはマインドフルネスにも役に立つ。
たいていの人は普段の生活で足の裏の存在を忘れている。時々思い出してやることで、自分の存在が足の裏から頭のてっぺんまであることを意識することができ、マインドフルネスの実践ができる。
けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た。
実は――きのうひさしぶりで町へ下りて菓子でも買って帰ろうとしたら、何処の店ももう大概引き上げたあとで、漸《や》っと町はずれのアメリカン・ベエカリイだけがまだ店を開いていたので、飛び込んだら、欲しいようなものは殆ど何も無かった、木目菓子《バウム・クウヘン》の根っこのところだけ、それも半欠けになって残っていたが、いくら好きでも、これにはちょっと手を出し兼ねていた。そこへよく見かける一人の老外人がはいって来た。この店のお得意だと見え、「おやおや、お菓子、もうなんにも無いですね……」と割に流暢な日本語で店の売子に言葉を掛けながら、私の手を出しかねていたバウム・クウヘンを指して、「これは鼠が噛《かじ》ったのですか?」などと常談さえ云う。
——堀辰雄「晩夏」より
◎足の裏
足の裏にはたくさんのツボがあって、それは全身に対応している。その関係を称して「反射区」といったり、英語では「リフレクソロジー」といったりしている。
足ツボを刺激するのは健康にも有益だが、足の裏を意識するのはマインドフルネスにも役に立つ。
たいていの人は普段の生活で足の裏の存在を忘れている。時々思い出してやることで、自分の存在が足の裏から頭のてっぺんまであることを意識することができ、マインドフルネスの実践ができる。
2012年4月16日月曜日
4月16日
◎今日のテキスト
らいちょうさま、
このほどお体は如何《いかが》で御座いますか。爽《さわ》やかな朝風に吹かれるといかにもすがすがしくて、今日こそ、何もかもしてしまおうと、日頃のおこたりを責められながら、私は、貧乏な財袋《さいふ》よりもなお乏しい頭の濫費をしつつ無為な日を送っております。
御あたりはお静かでございますか。田舎での御生活は、どこやら不如意なようでいて、充実されたものであろうと、お羨《うらやま》しくぞんじます。あなたのお体にもよし、御家庭にもしみじみとした味の出た事と存じます。お子さまがたは、御自分たちのお母さまとして、日夜お傍《そば》に親しむことのお出来になるのを、どんなに現わし得ない感謝をもって、およろこびなされている事かと、あたくしでさえ嬉しい心地がいたします。そして風物は悠々として、あなたの御健康を甦《よみが》えらせていることとぞんじます。
——長谷川時雨「平塚明子(らいちょう)」より
◎ジャズ
ジャズという音楽は即興演奏に価値を置いている。いま、この瞬間、自分がどのような音を出したいのか、なにをいいたいのかに向き合って、マインドフルに演奏を進めていく音楽がジャズだといえる。
ジャズ意外の音楽はクラシックもポップスもロックも、ほとんどがあらかじめ決められた進行がある。とくにクラシックはすべてが楽譜に書かれていて、そこから逸脱した音は単なる「ミス」と見なされてしまう。ジャズは逆に、いかに逸脱するか、いかに他人がやらなかったことを自分がやるか、ということに価値を見いだそうとする。
マインドフルネスを学ぼうとする者は、このジャズの精神に触発されることは多い。もっとも、ジャズ音楽もある一定の「っぽい」とか、形式におちいってしまっては、伝統音楽となにも変わらなくなってしまうわけだが。
らいちょうさま、
このほどお体は如何《いかが》で御座いますか。爽《さわ》やかな朝風に吹かれるといかにもすがすがしくて、今日こそ、何もかもしてしまおうと、日頃のおこたりを責められながら、私は、貧乏な財袋《さいふ》よりもなお乏しい頭の濫費をしつつ無為な日を送っております。
御あたりはお静かでございますか。田舎での御生活は、どこやら不如意なようでいて、充実されたものであろうと、お羨《うらやま》しくぞんじます。あなたのお体にもよし、御家庭にもしみじみとした味の出た事と存じます。お子さまがたは、御自分たちのお母さまとして、日夜お傍《そば》に親しむことのお出来になるのを、どんなに現わし得ない感謝をもって、およろこびなされている事かと、あたくしでさえ嬉しい心地がいたします。そして風物は悠々として、あなたの御健康を甦《よみが》えらせていることとぞんじます。
——長谷川時雨「平塚明子(らいちょう)」より
◎ジャズ
ジャズという音楽は即興演奏に価値を置いている。いま、この瞬間、自分がどのような音を出したいのか、なにをいいたいのかに向き合って、マインドフルに演奏を進めていく音楽がジャズだといえる。
ジャズ意外の音楽はクラシックもポップスもロックも、ほとんどがあらかじめ決められた進行がある。とくにクラシックはすべてが楽譜に書かれていて、そこから逸脱した音は単なる「ミス」と見なされてしまう。ジャズは逆に、いかに逸脱するか、いかに他人がやらなかったことを自分がやるか、ということに価値を見いだそうとする。
マインドフルネスを学ぼうとする者は、このジャズの精神に触発されることは多い。もっとも、ジャズ音楽もある一定の「っぽい」とか、形式におちいってしまっては、伝統音楽となにも変わらなくなってしまうわけだが。
2012年4月15日日曜日
4月15日
◎今日のテキスト
誰か慌《あは》ただしく門前を馳《か》けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄《まないたげた》が空《くう》から、ぶら下《さが》っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退《とほの》くに従って、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕《ゆふべ》床《とこ》の中
で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬《ごむまり》を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣《あたり》が静かな所為《せい》かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋《あばら》のはずれに正しく中《あた》る血の音を確かめながら眠《ねむり》に就いた。
——夏目漱石『それから』より
◎猫から学ぶ
猫は大脳皮質が人間ほどには発達していないので、思考にとらわれることはない。それを称して「猫は頭が悪い」とか「人間より劣っている」というのは、それこそ思考(人間世界の価値判断)にとらわれている人間のおろかさを表している。
記憶や思考にとらわれていない猫の行動を観察してみると、いつもマインドフルであることがわかる。つねに「いまここ」の自分のニーズにもとずいて行動している。それを「身勝手だ」と決めつけるのも人間の勝手な価値基準によるジャッジメントだ。猫はつねに自分に正直で、自分にとって必要なことを必要なときに他人を気にすることなく行なう、マインドフルネスのお手本のような動物である。
誰か慌《あは》ただしく門前を馳《か》けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄《まないたげた》が空《くう》から、ぶら下《さが》っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退《とほの》くに従って、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕《ゆふべ》床《とこ》の中
で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬《ごむまり》を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣《あたり》が静かな所為《せい》かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋《あばら》のはずれに正しく中《あた》る血の音を確かめながら眠《ねむり》に就いた。
——夏目漱石『それから』より
◎猫から学ぶ
猫は大脳皮質が人間ほどには発達していないので、思考にとらわれることはない。それを称して「猫は頭が悪い」とか「人間より劣っている」というのは、それこそ思考(人間世界の価値判断)にとらわれている人間のおろかさを表している。
記憶や思考にとらわれていない猫の行動を観察してみると、いつもマインドフルであることがわかる。つねに「いまここ」の自分のニーズにもとずいて行動している。それを「身勝手だ」と決めつけるのも人間の勝手な価値基準によるジャッジメントだ。猫はつねに自分に正直で、自分にとって必要なことを必要なときに他人を気にすることなく行なう、マインドフルネスのお手本のような動物である。
2012年4月14日土曜日
4月14日
◎今日のテキスト
野原にはもう春がきていました。
桜がさき、小鳥はないておりました。
けれども、山にはまだ春はきていませんでした。
山のいただきには、雪も白くのこっていました。
山のおくには、おやこの鹿がすんでいました。
坊やの鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。
「お父ちゃん、春ってどんなもの。」
「春には花がさくのさ。」
「お母ちゃん、花ってどんなもの。」
「花ってね、きれいなものよ。」
「ふウん。」
けれど、坊やの鹿は、花をみたこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。
——新美南吉「里の春、山の春」より
◎立ったり座ったり
身体を動かしながら文章を読むといろいろな発見がある。
今日の新美南吉の文章の場合、最初の「野原にはもう春がきていました」という文章を、座った状態から読み始めて、文章の最後で立ち上がりきります。次の「桜が……」の文章で、立った状態から文章の最後で座りきります。
文章の長さはいろいろなので、その長さに合わせて立ったり座ったりすることで、文章を読むことと身体の動きを結びつけていきます。
野原にはもう春がきていました。
桜がさき、小鳥はないておりました。
けれども、山にはまだ春はきていませんでした。
山のいただきには、雪も白くのこっていました。
山のおくには、おやこの鹿がすんでいました。
坊やの鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。
「お父ちゃん、春ってどんなもの。」
「春には花がさくのさ。」
「お母ちゃん、花ってどんなもの。」
「花ってね、きれいなものよ。」
「ふウん。」
けれど、坊やの鹿は、花をみたこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。
——新美南吉「里の春、山の春」より
◎立ったり座ったり
身体を動かしながら文章を読むといろいろな発見がある。
今日の新美南吉の文章の場合、最初の「野原にはもう春がきていました」という文章を、座った状態から読み始めて、文章の最後で立ち上がりきります。次の「桜が……」の文章で、立った状態から文章の最後で座りきります。
文章の長さはいろいろなので、その長さに合わせて立ったり座ったりすることで、文章を読むことと身体の動きを結びつけていきます。
2012年4月13日金曜日
4月13日
◎今日のテキスト
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪《のろ》っているのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
——中原中也『在りし日の歌』より「北の海」
◎指をぎゅっと握って読んでみると?
なにかを音読するとき、身体が緊張しているときとリラックスしているときとでは読み方が変わることはだれもがわかることだ。
では、部分的に身体を緊張させてみるとどうなるだろうか。
古武術の世界では「身体操法」といって、身体の一部の形を変えることで力の出し方を変えることがよくいわれている。朗読でもおなじで、たとえば片手の指をぎゅっと握って読むのと、開いて読むのとでは、読み方が変わる。実際にやってみて体感してみてほしい。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪《のろ》っているのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
——中原中也『在りし日の歌』より「北の海」
◎指をぎゅっと握って読んでみると?
なにかを音読するとき、身体が緊張しているときとリラックスしているときとでは読み方が変わることはだれもがわかることだ。
では、部分的に身体を緊張させてみるとどうなるだろうか。
古武術の世界では「身体操法」といって、身体の一部の形を変えることで力の出し方を変えることがよくいわれている。朗読でもおなじで、たとえば片手の指をぎゅっと握って読むのと、開いて読むのとでは、読み方が変わる。実際にやってみて体感してみてほしい。
2012年4月12日木曜日
4月12日
◎今日のテキスト
大菩薩峠《だいぼさつとうげ》は江戸を西に距《さ》る三十里、甲州裏街道が甲斐国《かいのくに》東山梨郡萩原《はぎわら》村に入って、その最も高く最も険《けわ》しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖《ひじり》が、この嶺《みね》の頂《いただき》に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹《ふえふき》川となり、いずれも流れの末永く人を湿《うる》おし田を実《みの》らすと申し伝えられてあります。
——中里介山『大菩薩峠』より
◎その怒りは相手の「せい」ではない(後)
友人は待ち合わせ時間に遅れてきたわけだが、そこにはそれ以上の事実はない。あなたはその事実を受けて、友人に対する「信頼のニーズ」や自分の時間に対する「効率性のニーズ」が損なわれたと感じた結果、友人の行動に対して怒りやいらだちの感情を覚えたわけだ。あなたの感情は友人の行動の「せい」ではなく、あなたのニーズが友人の行動によって損なわれたと感じた結果生じたものだ。
おそらく友人はあなたに対する信頼を損なおうとしたり、効率性を損なおうとして時間に遅れたのではないだろう。友人にも友人なりに、時間に遅れてしまうだけの自分のニーズがあったはずだ。たとえば出がけにお腹が痛くなって自分のケアをする必要が生じたとかなんとか。それにあなたが共感を向けていくことで、ふたりの関係はすぐに修復に向かうことができる。
大菩薩峠《だいぼさつとうげ》は江戸を西に距《さ》る三十里、甲州裏街道が甲斐国《かいのくに》東山梨郡萩原《はぎわら》村に入って、その最も高く最も険《けわ》しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖《ひじり》が、この嶺《みね》の頂《いただき》に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹《ふえふき》川となり、いずれも流れの末永く人を湿《うる》おし田を実《みの》らすと申し伝えられてあります。
——中里介山『大菩薩峠』より
◎その怒りは相手の「せい」ではない(後)
友人は待ち合わせ時間に遅れてきたわけだが、そこにはそれ以上の事実はない。あなたはその事実を受けて、友人に対する「信頼のニーズ」や自分の時間に対する「効率性のニーズ」が損なわれたと感じた結果、友人の行動に対して怒りやいらだちの感情を覚えたわけだ。あなたの感情は友人の行動の「せい」ではなく、あなたのニーズが友人の行動によって損なわれたと感じた結果生じたものだ。
おそらく友人はあなたに対する信頼を損なおうとしたり、効率性を損なおうとして時間に遅れたのではないだろう。友人にも友人なりに、時間に遅れてしまうだけの自分のニーズがあったはずだ。たとえば出がけにお腹が痛くなって自分のケアをする必要が生じたとかなんとか。それにあなたが共感を向けていくことで、ふたりの関係はすぐに修復に向かうことができる。
2012年4月11日水曜日
4月11日
◎今日のテキスト
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。
——川端康成『雪国』より
◎その怒りは相手の「せい」ではない(前)
あなたがなにかで怒りを覚えたとき、それを相手の「せい」にしてぶつけてはいけない。
これも重要な心理学的認知のプロセスなのだが、あなたが怒ったのは相手の行動がきっかけではあるけれど、直接の原因ではないということだ。
たとえば、友人と会う約束をしていて、しかし友人が待ち合わせ場所に時間通りに来なかったとする。30分も遅れてきた。あなたは大変疲れてイライラしてしまい、やってきた友人にその怒りをぶつけてしまう。あなたのおかげで私の時間が無駄になった、と。
しかし、その怒りは友人のせいではなく、あなたのなかのニーズが損なわれたために生まれた感情なのだ。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。
——川端康成『雪国』より
◎その怒りは相手の「せい」ではない(前)
あなたがなにかで怒りを覚えたとき、それを相手の「せい」にしてぶつけてはいけない。
これも重要な心理学的認知のプロセスなのだが、あなたが怒ったのは相手の行動がきっかけではあるけれど、直接の原因ではないということだ。
たとえば、友人と会う約束をしていて、しかし友人が待ち合わせ場所に時間通りに来なかったとする。30分も遅れてきた。あなたは大変疲れてイライラしてしまい、やってきた友人にその怒りをぶつけてしまう。あなたのおかげで私の時間が無駄になった、と。
しかし、その怒りは友人のせいではなく、あなたのなかのニーズが損なわれたために生まれた感情なのだ。
2012年4月10日火曜日
4月10日
◎今日のテキスト
まっくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうえで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のようなみかづきがかすんでいる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』
『おわぁあ、ここの家の主人は病気です』
——萩原朔太郎『月に吠える』より「猫」
◎対価とか等価交換とか(3)
現代社会はあらゆることが金銭的価値に置き換えられて判断しようとする習性が満ち満ちているけれど、金銭に換算できない価値は多い。というより、よくかんがえてみれば金銭に換算できないことのほうがはるかに多いのだ。そのことを資本主義経済のなかで生きている現代人の多くが忘れてしまっている。
たとえば道を歩いていてふと見上げたとき目にはいってきた夜の星。これに値段がついているだろうか。しかし、この光景は、少なくとも私にとってはとても大切なもので、これが見られない人生なんてかんがえることはできない。
道ばたに咲いている野草の花も金銭に置き換えることはできないが、これをなにより大切に思っている人はたくさんいるだろう。
表現行為もおなじで、子どもが歌をうたったり、絵を描いたり、大人でも朗読したりといったことは、金銭に換算できることはできない。できないのだが、なにより大切なことかもしれない。
表現行為を金銭換算することをやめよう。
まっくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうえで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のようなみかづきがかすんでいる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』
『おわぁあ、ここの家の主人は病気です』
——萩原朔太郎『月に吠える』より「猫」
◎対価とか等価交換とか(3)
現代社会はあらゆることが金銭的価値に置き換えられて判断しようとする習性が満ち満ちているけれど、金銭に換算できない価値は多い。というより、よくかんがえてみれば金銭に換算できないことのほうがはるかに多いのだ。そのことを資本主義経済のなかで生きている現代人の多くが忘れてしまっている。
たとえば道を歩いていてふと見上げたとき目にはいってきた夜の星。これに値段がついているだろうか。しかし、この光景は、少なくとも私にとってはとても大切なもので、これが見られない人生なんてかんがえることはできない。
道ばたに咲いている野草の花も金銭に置き換えることはできないが、これをなにより大切に思っている人はたくさんいるだろう。
表現行為もおなじで、子どもが歌をうたったり、絵を描いたり、大人でも朗読したりといったことは、金銭に換算できることはできない。できないのだが、なにより大切なことかもしれない。
表現行為を金銭換算することをやめよう。
2012年4月9日月曜日
4月9日
◎今日のテキスト
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭《はとば》から 汽船《ふね》に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢《あ》うたび 考える
——野口雨情「赤い靴」
◎対価とか等価交換とか(2)
表現活動の多くが経済活動の側面を持っているために、資本主義経済の考え方を持ちこんでしまう人が多い。
もちろん最初から商業活動しておこなわれている表現もある。しかし、そもそも表現がはじまる最初のところは、商業とは関係がない。人はただ自分を表現したくて、なにかを人に伝えたくて、あるいは自分そのものを伝えたくて表現をする。そこにはその行為をお金に換算するという考えはない。
その行為が結果的に経済を基準にして評価されたり、あるいは表現の場を確保するために、お金が動きはじめる。そこで表現活動に経済的な考え方を持ちこんでしまう人が多く出てきてしまう。表現活動の運営に経済は大切だけれど、それはけっして根幹をなしているわけではない。
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭《はとば》から 汽船《ふね》に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢《あ》うたび 考える
——野口雨情「赤い靴」
◎対価とか等価交換とか(2)
表現活動の多くが経済活動の側面を持っているために、資本主義経済の考え方を持ちこんでしまう人が多い。
もちろん最初から商業活動しておこなわれている表現もある。しかし、そもそも表現がはじまる最初のところは、商業とは関係がない。人はただ自分を表現したくて、なにかを人に伝えたくて、あるいは自分そのものを伝えたくて表現をする。そこにはその行為をお金に換算するという考えはない。
その行為が結果的に経済を基準にして評価されたり、あるいは表現の場を確保するために、お金が動きはじめる。そこで表現活動に経済的な考え方を持ちこんでしまう人が多く出てきてしまう。表現活動の運営に経済は大切だけれど、それはけっして根幹をなしているわけではない。
2012年4月8日日曜日
4月8日
◎今日のテキスト
学校へいくとちゅうに、大きな池がありました。
一年生たちが、朝そこを通りかかりました。
池の中にはひよめが五六っぱ、黒くうかんでおりました。
それをみると一年生たちは、いつものように声をそろえて、
ひイよめ、
ひよめ、
だんごやアるに
くウぐウれッ、
とうたいました。
するとひよめは頭からぷくりと水のなかにもぐりました。だんごがもらえるのをよろこんでいるようにみえました。
——新美南吉「一年生たちとひよめ」より
◎対価とか等価交換とか(1)
朗読や音楽のライブをやるときに、出演者から聞く言葉で私がもっとも残念に感じるフレーズのひとつに、こういうものがある。
「チケットが2,000円だからそれに見合うだけの内容にしたい」
「こんなに下手なのに2,000円ももらえない」
この言葉の裏には「等価交換」という現代の経済システムの考え方が持ちこまれている。2,000円の金額に対しては、それに見合うだけの物やサービス・娯楽が提供されるべきだ、というものだ。私はこれを大変貧しい考え方だと思っている。
そもそも表現活動は経済活動なのだろうか。
学校へいくとちゅうに、大きな池がありました。
一年生たちが、朝そこを通りかかりました。
池の中にはひよめが五六っぱ、黒くうかんでおりました。
それをみると一年生たちは、いつものように声をそろえて、
ひイよめ、
ひよめ、
だんごやアるに
くウぐウれッ、
とうたいました。
するとひよめは頭からぷくりと水のなかにもぐりました。だんごがもらえるのをよろこんでいるようにみえました。
——新美南吉「一年生たちとひよめ」より
◎対価とか等価交換とか(1)
朗読や音楽のライブをやるときに、出演者から聞く言葉で私がもっとも残念に感じるフレーズのひとつに、こういうものがある。
「チケットが2,000円だからそれに見合うだけの内容にしたい」
「こんなに下手なのに2,000円ももらえない」
この言葉の裏には「等価交換」という現代の経済システムの考え方が持ちこまれている。2,000円の金額に対しては、それに見合うだけの物やサービス・娯楽が提供されるべきだ、というものだ。私はこれを大変貧しい考え方だと思っている。
そもそも表現活動は経済活動なのだろうか。
2012年4月7日土曜日
4月7日
◎今日のテキスト
親譲《おやゆず》りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇《むやみ》をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張《いば》っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃《はや》したからである。小使《こづかい》に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかといったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
——夏目漱石『坊っちゃん』より
◎慢性的緊張をときほぐす
ストレスによる緩慢なびっくり反射によって緊張が持続してしまう身体から緊張を解くには、マインドフルネスの実践がもっとも効果的だ。
緊張がメンタルな原因で起こっている場合、メンタルで対処するのが論理的である。「いまここ」にいる自分が、ストレスにさらされていないこと、いま現在緊張があるとするなら、それは過去のストレスのイメージを引きずっているせいであること、あるいはまだ起こってもいないストレスを想像しているせいであることを自覚する。「いまここ」にいる自分はストレスにさらされておらず、落ち着いて呼吸することができ、リラックスできることをゆっくりと確認する。
深い呼吸をして全身をリラックスさせることで、緊張がゆっくりとときほぐれていくことを味わってみる。その経験はあなたの心にスペースを作ってくれる。
親譲《おやゆず》りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇《むやみ》をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張《いば》っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃《はや》したからである。小使《こづかい》に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかといったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
——夏目漱石『坊っちゃん』より
◎慢性的緊張をときほぐす
ストレスによる緩慢なびっくり反射によって緊張が持続してしまう身体から緊張を解くには、マインドフルネスの実践がもっとも効果的だ。
緊張がメンタルな原因で起こっている場合、メンタルで対処するのが論理的である。「いまここ」にいる自分が、ストレスにさらされていないこと、いま現在緊張があるとするなら、それは過去のストレスのイメージを引きずっているせいであること、あるいはまだ起こってもいないストレスを想像しているせいであることを自覚する。「いまここ」にいる自分はストレスにさらされておらず、落ち着いて呼吸することができ、リラックスできることをゆっくりと確認する。
深い呼吸をして全身をリラックスさせることで、緊張がゆっくりとときほぐれていくことを味わってみる。その経験はあなたの心にスペースを作ってくれる。
2012年4月6日金曜日
4月6日
◎今日のテキスト
博物教室から職員室へ引揚げて来る時、途中の廊下で背後《うしろ》から「先生」と呼びとめられた。
振返ると、生徒の一人――顏は確かに知っているが、名前が咄嗟には浮かんで来ない――が私の前に來て、何かよく聞きとれないことを言いながら、五寸角位の・蓋の無い・菓子箱様《やう》のものを差出した。箱の中には綿が敷かれ、その上に青黒い蜥蜴のような妙な形のものが載《の》っている。
——中島敦「かめれおん日記」
◎慢性的びっくり反射
ヒトをふくめ動物は、なにか突発的な危険や予期せぬことに出くわすと、反射的にビクっと首をすくめる。首をすくめるだけでなく、全身の筋肉を硬直させ、呼吸を止める。
これは防衛反応の一種で、避けることはできない。動物の種類によっては仮死状態になるものすらある。それだけ自分の身を守ろうとする反射は強烈なものだ。
大脳皮質が発達したヒトはこのびっくり反射が想像や記憶によってゆるやかに持続的に起こってしまうことがある。それがストレスによるびっくり反射だ。ほとんどの現代人はそうだが、ストレスを受けつづけることでゆるやかなびっくり反射が持続している。すなわち首をすくめ(肩がこり)、全身の筋肉が硬直し(緊張が取れない)、呼吸が浅くなったりしばしば止まってしまったりする結果、酸素欠乏におちいり、いろいろな症状やフアンを引き起こすことになる。
博物教室から職員室へ引揚げて来る時、途中の廊下で背後《うしろ》から「先生」と呼びとめられた。
振返ると、生徒の一人――顏は確かに知っているが、名前が咄嗟には浮かんで来ない――が私の前に來て、何かよく聞きとれないことを言いながら、五寸角位の・蓋の無い・菓子箱様《やう》のものを差出した。箱の中には綿が敷かれ、その上に青黒い蜥蜴のような妙な形のものが載《の》っている。
——中島敦「かめれおん日記」
◎慢性的びっくり反射
ヒトをふくめ動物は、なにか突発的な危険や予期せぬことに出くわすと、反射的にビクっと首をすくめる。首をすくめるだけでなく、全身の筋肉を硬直させ、呼吸を止める。
これは防衛反応の一種で、避けることはできない。動物の種類によっては仮死状態になるものすらある。それだけ自分の身を守ろうとする反射は強烈なものだ。
大脳皮質が発達したヒトはこのびっくり反射が想像や記憶によってゆるやかに持続的に起こってしまうことがある。それがストレスによるびっくり反射だ。ほとんどの現代人はそうだが、ストレスを受けつづけることでゆるやかなびっくり反射が持続している。すなわち首をすくめ(肩がこり)、全身の筋肉が硬直し(緊張が取れない)、呼吸が浅くなったりしばしば止まってしまったりする結果、酸素欠乏におちいり、いろいろな症状やフアンを引き起こすことになる。
2012年4月5日木曜日
4月5日
◎今日のテキスト
仰げば尊し、わが師の恩。
教の庭にも、はやいくとせ。
おもえばいと疾し、このとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。
互いにむつみし、日ごろの恩。
わかるる後にも、やよわするな。
身をたて名をあげ、やよはげめよ。
今こそわかれめ、いざさらば。
朝ゆうなれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするるまぞなき、ゆくとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。
——文部省唱歌「仰げば尊し」
◎だれかから嫌なことをいわれたとき(後)
だれかから嫌なことをいわれて傷ついたり嫌な気分になったとき、まずは自分に共感を向けること。それができたら、次にできるのは、相手に共感を向けることである。
だれもがなにかを行なったりいったりするとき、必ずその背後にはその人の「ニーズ」がある。理由なく行動する人はいない。その理由が自覚しているか、自覚できていない無意識からによるものかの違いはあるにせよ。
相手がなにかいってきた、その理由(ニーズ)にフォーカスしてみる。興味を持つ、といいかえてもいい。相手が自分に対してそんな言葉をいってきたのは、どういう理由によるものなのか、好奇心を発動できればこちら側の問題はほとんど解決している。そのときそれは自分の問題ではなく、相手側の問題になっているからだ。
自分が傷ついて落ちこむのではなく、相手に興味を向けることで関係性を前に進めていくことができる。
仰げば尊し、わが師の恩。
教の庭にも、はやいくとせ。
おもえばいと疾し、このとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。
互いにむつみし、日ごろの恩。
わかるる後にも、やよわするな。
身をたて名をあげ、やよはげめよ。
今こそわかれめ、いざさらば。
朝ゆうなれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするるまぞなき、ゆくとし月。
今こそわかれめ、いざさらば。
——文部省唱歌「仰げば尊し」
◎だれかから嫌なことをいわれたとき(後)
だれかから嫌なことをいわれて傷ついたり嫌な気分になったとき、まずは自分に共感を向けること。それができたら、次にできるのは、相手に共感を向けることである。
だれもがなにかを行なったりいったりするとき、必ずその背後にはその人の「ニーズ」がある。理由なく行動する人はいない。その理由が自覚しているか、自覚できていない無意識からによるものかの違いはあるにせよ。
相手がなにかいってきた、その理由(ニーズ)にフォーカスしてみる。興味を持つ、といいかえてもいい。相手が自分に対してそんな言葉をいってきたのは、どういう理由によるものなのか、好奇心を発動できればこちら側の問題はほとんど解決している。そのときそれは自分の問題ではなく、相手側の問題になっているからだ。
自分が傷ついて落ちこむのではなく、相手に興味を向けることで関係性を前に進めていくことができる。
2012年4月4日水曜日
4月4日
◎今日のテキスト
奈良や吉野とめぐってもどって見ると、わずか五六日の内に京は目切《めっきり》と淋しくなっていた。奈良は晴天が持続した。それでこの地方に特有な白く乾燥した土と、一帯に平地を飾る菜の花とが、蒼い天を戴いた地勢と相俟って見るから朗かでかつ快かった。京も菜の花で郊外が彩色されている。しかし周囲の緑が近いためか陰鬱の気が身に返って感ぜられるのである。
——長塚節「菜の花」より
◎だれかから嫌なことをいわれたとき(前)
故意であれうっかりであれ、だれかがあなたを傷つけたり、嫌な気分にさせるようなことをいうことがある。そんなときにはどうしたらいいか。
まずは自分の気持ちを見てあげること。ああ、いまこんなことをいわれて、自分は嫌な気分になったんだな、悲しいんだな、ムカついてるんだな、といった自分の感情にきちんとフォーカスしてあげること。そのことによって自分の身体が萎縮したり、こわばったり、呼吸が止まったり早くなったりしていることをきちんと見て認める。
それができたら、次は「いまここ」のマインドフルネスの意識を持つために、ゆっくりと深い呼吸をして自分の身体に意識を向け、頭のてっぺんから足の裏まで身体があることを確認する。これをグラウンディングとも呼ぶ。
そして自分に共感を向けていく。
奈良や吉野とめぐってもどって見ると、わずか五六日の内に京は目切《めっきり》と淋しくなっていた。奈良は晴天が持続した。それでこの地方に特有な白く乾燥した土と、一帯に平地を飾る菜の花とが、蒼い天を戴いた地勢と相俟って見るから朗かでかつ快かった。京も菜の花で郊外が彩色されている。しかし周囲の緑が近いためか陰鬱の気が身に返って感ぜられるのである。
——長塚節「菜の花」より
◎だれかから嫌なことをいわれたとき(前)
故意であれうっかりであれ、だれかがあなたを傷つけたり、嫌な気分にさせるようなことをいうことがある。そんなときにはどうしたらいいか。
まずは自分の気持ちを見てあげること。ああ、いまこんなことをいわれて、自分は嫌な気分になったんだな、悲しいんだな、ムカついてるんだな、といった自分の感情にきちんとフォーカスしてあげること。そのことによって自分の身体が萎縮したり、こわばったり、呼吸が止まったり早くなったりしていることをきちんと見て認める。
それができたら、次は「いまここ」のマインドフルネスの意識を持つために、ゆっくりと深い呼吸をして自分の身体に意識を向け、頭のてっぺんから足の裏まで身体があることを確認する。これをグラウンディングとも呼ぶ。
そして自分に共感を向けていく。
2012年4月3日火曜日
4月3日
◎今日のテキスト
僕は、僕の母の胎内にゐるとき、お臍《へそ》の穴から、僕の生れる家《うち》の中を、覗いてみて、
「こいつは、いけねえ」
と、思つた。頭の禿げかゝつた親爺と、それに相当した婆《ばば》とが、薄暗くつて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐つてゐるのである。だが、神様から、こゝへ生れて出ろと、云はれたのだから、
「仕方がねえや」
と、覚悟をしたが、その時から、貧乏には慣れてゐる。
——直木三十五「貧乏一期、二期、三期」より
◎音読療法でストレスマネジメント
普段から身につけておけば、いざというときにとても役に立つ。
だれかから不愉快なことをいわれてムカついた、上司からしかられた、うっかり口をすべらせて相手を怒らせてしまった、などなど、期せずしてストレスを受けることがある。そんなとき、自分の呼吸を観察し、マインドフルネスを心がけることで、ストレスに対処できるようになる。その対処プロセスのひとつが、音読療法である。
呼吸、発声、音読でのマインドフルネス、反芻思考からの離脱。いつでもストレスに対処できる方策を持っているという自信が、世の荒波にこぎだす楽しさを保証する。
僕は、僕の母の胎内にゐるとき、お臍《へそ》の穴から、僕の生れる家《うち》の中を、覗いてみて、
「こいつは、いけねえ」
と、思つた。頭の禿げかゝつた親爺と、それに相当した婆《ばば》とが、薄暗くつて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐つてゐるのである。だが、神様から、こゝへ生れて出ろと、云はれたのだから、
「仕方がねえや」
と、覚悟をしたが、その時から、貧乏には慣れてゐる。
——直木三十五「貧乏一期、二期、三期」より
◎音読療法でストレスマネジメント
普段から身につけておけば、いざというときにとても役に立つ。
だれかから不愉快なことをいわれてムカついた、上司からしかられた、うっかり口をすべらせて相手を怒らせてしまった、などなど、期せずしてストレスを受けることがある。そんなとき、自分の呼吸を観察し、マインドフルネスを心がけることで、ストレスに対処できるようになる。その対処プロセスのひとつが、音読療法である。
呼吸、発声、音読でのマインドフルネス、反芻思考からの離脱。いつでもストレスに対処できる方策を持っているという自信が、世の荒波にこぎだす楽しさを保証する。
2012年4月2日月曜日
4月2日
◎今日のテキスト
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
氷解け去り 葦は角《つの》ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急《せ》かるる
胸の思《おもい》を
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
——吉丸一昌「早春賦」
◎音読療法のいいところ
音読療法(ボイスセラピー)はいつでもどこでも、なにも道具を使わずに、自分の呼吸と声だけを使ってやれるという利点がある。場合によっては声すら使わず、呼吸だけでもある程度は効果をあげられる。
音読療法は、それを使ってだれかを癒してあげられる、という以上に、まずは自分自身の心身の調子を整えることに使うことができる。セラピストが調子が悪ければクライアントを癒すどころではない、という事実がある。
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
氷解け去り 葦は角《つの》ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急《せ》かるる
胸の思《おもい》を
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
——吉丸一昌「早春賦」
◎音読療法のいいところ
音読療法(ボイスセラピー)はいつでもどこでも、なにも道具を使わずに、自分の呼吸と声だけを使ってやれるという利点がある。場合によっては声すら使わず、呼吸だけでもある程度は効果をあげられる。
音読療法は、それを使ってだれかを癒してあげられる、という以上に、まずは自分自身の心身の調子を整えることに使うことができる。セラピストが調子が悪ければクライアントを癒すどころではない、という事実がある。
2012年4月1日日曜日
4月1日
◎今日のテキスト
「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要《い》らない。男は嘘《うそ》をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。」
——太宰治「嘘」より
◎人は自分に嘘をつく動物
自分がとてもつらいと思っていても、「いやまだがんばれる」と言い聞かせて無理をした結果、心身を壊してしまったり、楽しいことなのに「こんなに楽しい思いをするなんて後ろめたい」と思って尻込みしたり、という経験は多くの人にあることだろう。
人は自分の正直な感情や身体からの信号を無視したり、それを続けた結果気づかなくなってしまったりすることがある。そうやって自分や他人をだましつづけた結果、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなってしまう人がいる。
自分にとって都合のいいことしか見聞きしなかったことにしたり、覚えていなかったり、といったことは、一種のこころの防衛反応なのだが、発達した大脳のこざかしい働きなので、後でしっぺ返しを負うことが多い。マインドフルに「いまここ」の自分の正直なニーズを確認していくことで、健全な心身をたもっていくことができる。
「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要《い》らない。男は嘘《うそ》をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。」
——太宰治「嘘」より
◎人は自分に嘘をつく動物
自分がとてもつらいと思っていても、「いやまだがんばれる」と言い聞かせて無理をした結果、心身を壊してしまったり、楽しいことなのに「こんなに楽しい思いをするなんて後ろめたい」と思って尻込みしたり、という経験は多くの人にあることだろう。
人は自分の正直な感情や身体からの信号を無視したり、それを続けた結果気づかなくなってしまったりすることがある。そうやって自分や他人をだましつづけた結果、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなってしまう人がいる。
自分にとって都合のいいことしか見聞きしなかったことにしたり、覚えていなかったり、といったことは、一種のこころの防衛反応なのだが、発達した大脳のこざかしい働きなので、後でしっぺ返しを負うことが多い。マインドフルに「いまここ」の自分の正直なニーズを確認していくことで、健全な心身をたもっていくことができる。
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