2012年4月19日木曜日

4月19日

◎今日のテキスト

 近頃私は死というものをそんなに恐しく思わなくなった。年齡のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。
 思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。墓に詣でても、昔のように陰惨な気持ちになることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原学には関係がない)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり言い表わしていることを思うようになった。
 ——三木清『人生論ノート』より

◎音楽を聴くことと音を聴くこと

 私たちは音楽を聴くとき、そのメロディであるとか、ハーモニーであるとか、リズムなどを味わう。いわゆる楽譜に書かれた要素を聴き取り、それを解釈して楽しんでいる。が、実際には音楽のなかには楽譜に記載することのできないさまざまな音の要素が含まれている。
 たとえば演奏者の呼吸。呼気の水蒸気が水に還元されて管楽器の管にたまってブツブツいう音。ピアノの鍵盤やペダルのカタカタいう音。トランペットのバルブの上下する音。咳払い。指揮者の指揮棒が指揮台に打ちあたる音。クラリネットが裏返ってしまった音。そういった音も実は音楽の一部なのだということを、私たちは忘れている。
 ときにはそういった音だけに注意を向けて、ふだん忘れていることをいちいち思い出してみるのもいいかもしれない。

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