2012年4月27日金曜日

4月27日

◎今日のテキスト

 私は草鞋《わらじ》を愛する、あの、枯れた藁《わら》で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
 あの草鞋を程よく両足に穿《は》きしめて大地の上に立つと、急に五体の締まるのを感ずる。身体の重みをしっかりと地の上に感じ、そこから発した筋肉の動きがまた実に快く四肢五体に伝わってゆくのを覚ゆる。
 呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身体のために動かされた四辺《あたり》の空気が、いかにも心地よく自分の身体に触れて来る。
 ——若山牧水『樹木とその葉』より「草鞋の話旅の話」

◎人のせいにできることはなにもない

 よく人は、自分の怒りやいらだちを、自分以外の人のせいにすることがある。
 だれかが待ち合わせ時間に遅刻してきた。そのせいで自分は怒っているのだ。だれかが自分の悪口をいった。そのせいで自分は悲しくなったのだ。原発が事故を起こした。そのせいで自分は危険を感じて落ち着かない。
 それらすべては人のせいではなく、自分のニーズに原因がある。といったら、多くの人は反発を覚えるかもしれない。とくに原発のくだりは。
 自分の感情はすべて自分のなかにあるニーズから生まれる。たとえば、相手が待ち合わせ時間に遅刻して怒っているのは、相手にたいする信頼のニーズが損なわれたからであって、遅刻した事実そのものにはなんらの罪はない。相手にもなんらかのニーズがあって遅刻したのだ。
 いまここで起こっているのは、相手が遅刻したという事実と、それによって損なわれた自分自身のニーズによって引き起こされた感情があるということだ。自分自身の感情とニーズを見ることで、それを相手に「あんたのせいだ」と向けなくてもいいことに気づく。

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