2012年9月30日日曜日

9月30日


◎今日のテキスト

「おい、散歩に行《ゆ》かないか。」と、縁側に立って小さく口笛を吹いていた夫は言った。
 薄暗い台所でしていた水の音や皿の音は一寸《ちょっと》の間やんで、「ええ」と、勇みたったような返事が聞えると、また前よりは忙しく水の音がしだした。
 暗い夜であつた。少しばかり強く風が渡ると、光りの薄い星が瞬きをして、黒いそこらの樹影《こかげ》が、次ぎから次ぎへと素早く囁《ささや》きを伝えて行く。便所《はばかり》の手拭い掛けがことことと、戸袋に当って揺れるのがやむと、一頻《ひとしき》りひっそりと静かになって、弱り切った虫の音が、はぐきにしみるように啼いてるのが耳だって来る。
 ——水野仙子「散歩」より

◎息を吐ききる(三)

 なにか手近な文章を読んでみる。その意味をあまりかんがえず、ただ声を出すためだけに読んでみる。
 読みはじめたら、息継ぎをせずに、だらだらと句読点も区切らず、お経を読むような感じで一本調子に読みつづけていく。するとだんだん肺のなかの空気がなくなってきて、やがて読みがつづかなくなってくるだろう。それでも肺の空気が完全になくなって声が出なくなってしまうまで読みつづける。
 息を吐ききるのとおなじことが、これでできる。
 声が出なくなったら、おなかの力をゆるめると、自然に肺のなかに空気がはいってくるだろう。それをゆっくりと味わってから、またおなじようにお経のように読みつづける。それを繰り返す。
 これは音読療法でいう「ボトムブレッシング」という呼吸法とおなじ効果を得ることができる。

2012年9月29日土曜日

9月29日


◎今日のテキスト

 豊かな果樹園をつくるのは
 貴い魂にふさわしい仕事だ。
 それは孕める羊が産まぬ間《ま》に
 草原から草原へさまよい歩く
 遊牧の民のことではない。
 泣き叫ぶ声ききながら日の落ちぬ間に
 村から村を襲うて狂う
 暴虐な軍隊のことではない。
 また次の骰が投げられぬ間に
 町から町をかけめぐる
 苛立《いらだた》しい都会人のことでもない。
 豊かな果樹園をつくるためには、
 たましいの思慮と優《やさ》しさと
 堪え忍びと安けさとが必要だ。
 それは天国を地上へもちきたす
 聖なる魂にさえふさわしい仕事だ。
 ——三木清「私の果樹園」より

◎息を吐ききる(二)

 息を吐ききるときに心がけるのは、「細く長く」吐くということだ。
 ヨガでは呼吸は吐くのも吸うのもすべて鼻からなのだが、音読療法では吐くときは口でおこなうことを勧めている。初心者にはそのほうが「細く長く」という意識を持ちやすい。
 細く長く息を吐いていき、お腹がギュッと縮まるようにかたくなっていって、これ以上吐けないというところまできたら、最後に「フッ、フッ、フッ」と絞るように吐ききっていく。
 しかし、これがなかなかうまくいかない人がいる。そこでひと工夫必要になる。

2012年9月28日金曜日

9月28日


◎今日のテキスト

 朝蚊帳《かや》の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉《のど》が渇《かわ》いて全く潤《うるお》いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄《ぶどう》を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎《きんけい》の露一杯という心持がした。
 ——正岡子規「九月十四日の朝」より

◎息を吐ききる(一)

 音読療法の呼吸法では、まず息を吐ききる、ということをおこなう。
 グループワークでこれをやろうとすると、かならず何人か、息を吐ききるということがよくわからない、という人がいる。日常生活のなかで息を吐ききるという行為はなかなかない、というより皆無といっていいので、当然のことかもしれない。
 しかし、息を吐ききる行為は呼吸法にとって重要だし、いろいろな効果があることなので、ぜひとも息を吐ききることを意識して、しっかりと呼吸筋を使うようにしてみてほしい。

2012年9月27日木曜日

9月27日


◎今日のテキスト

 野山へ行くとあけびというものに出会う。秋の景物の一つでそれが秋になって一番目につくのは、食われる果実がその時期に熟するからである。田舎の子供は栗の笑うこの時分によく山に行き、かつて見覚えおいた藪でこれを採り嬉々として喜び食っている。東京付近で言えば、かの筑波山とか高尾山とかへ行けば、その季節には必ず山路でその地の人が山採りのその実を売っている。実の形が太く色が人眼をひく紫なものであるから、通る人にはだれにも気が付く。都会の人々には珍しいのでおみやげに買っていく。
 ——牧野富太郎「アケビ」より

◎ボイスセラピスト講座無料説明会

 昨日は銀座教室でボイスセラピスト講座の無料説明会をおこなった。告知が充分にゆきわたらず、開催直前まで参加者があまりいないのではないかと思っていたのだが、平日にもかかわらず何人もの方においでいただき、感謝している。
 まだスタートして一年とすこしの音読療法、この方法の簡便さとわかりやすさと、それにも関わらず大変効果的な心身のケアができるものとして自信を持ってみなさんにおすすめし、身につけて役に立ててもらいたいというニーズがある。
 自分自身の健康法、予防法、そしてストレスマネジメントツールとして威力を発揮するはずだし、また身近な人や友人、同僚といった人にも役立ててもらうことができる。
 無料説明会は今後もある程度定期的に開催していくつもりなので、興味がある方はどうぞ気軽にご参加ください。

2012年9月26日水曜日

9月26日


◎今日のテキスト

 槌で打たなければ、切り崩せない堅さの土塊《つちくれ》であった。――岡は、板の間に胡坐をして、傍らの椅子に正面を切って腰を掛けている私の姿を見あげながら、一握りの分量宛に土塊を砕きとって水に浸し、適度に水分を含んだ塊を順次に取り出しては菓子つくりのようにこねるのであった。
 岡の額には汗が滲んだ。彼の労働の状態を眺めていると、私も全身に熱を感じた。私達は朝の七時から仕事に着手して、午迄一言の言葉もとり交さなかった。――極寒の日であった。
 ——牧野信一「心象風景」より

◎舌の筋肉を鍛える(三)

 舌を頬の内側にあてて押し出すと、外から見ると飴をほおばっているように見える。その舌の状態で、舌先を「の」の字を描くように動かして、頬の内側をなぞる。
「一、二、三、四……」と十回転くらいする。
 右回りが終わったら、おなじように左回りもおこなう。
 片方の頬が終わったら、反対側の頬もおこなう。
 舌の筋肉が鍛えられると同時に、美容にもいいらしい。

2012年9月25日火曜日

9月25日


◎今日のテキスト

 夕方だのに汽車は大へん混んでいた。大部分は軽井沢へ行く人たちらしい。私の前には「天国新聞」というのを束にしてかかえている牧師さんがひとり。向隣りの席には、洋裝をした十九ぐらいのお孃さんと、その連れらしいゴルフ服を着た中年の紳士の二人づれ。その紳士はそのお孃さんの叔父さんぐらいの年輩だが、さうじゃないらしい。ほんの知合といったような様子である。……それにしても高崎までの汽車の中の暑苦しいことと言ったら! 私は明日からどうしても書き出さなければならない小説の構想を汽車の中ですっかり組立ててしまうつもりだったけれど、それどころじゃないのである。私はしようがないので、自分の前の牧師さんが軽井沢でする講演の材料にでもするのか、「天国新聞」の束を一つづつめくりながら、その一齣《こま》を丁寧に折り畳んでは、その折目のところを舌でなめて、指先で切り抜いているのをぼんやり眺めていた。
 ——堀辰雄「エトランジェ」より

◎舌の筋肉を鍛える(二)

 舌を歯茎の外側にそってゆっくりなぞりながら回っていくのを「舌回し」と呼んでいる。始めるのは右回りでも左回りでもかまわないが、できるだけゆっくりと二回回してワンセット。これを日に三セット。
 最初のうちは舌がつりそうになるかもしれない。実際に舌の筋肉がつったという人もいる。つるほど無理にやってはかえって傷めてしまうので、最初は無理のないように回数や舌を伸ばす長さを加減しながらやるといい。慣れてきたら、徐々に力強く、回数も増やしていく。
 数週間もすればカツゼツのコントロールが楽になっていることに気づくはずだ。

2012年9月24日月曜日

9月24日


◎今日のテキスト

 雲が重苦しく空に低くかかった、もの憂《う》い、暗い、寂寞《せきばく》とした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にもの淋《さび》しい地方を通りすぎて行った。そして黄昏《たそがれ》の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱《ゆううつ》なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。どうしてなのかは知らない――がその建物を最初にちらと見たとたんに、堪えがたい憂愁の情が心にしみわたった。堪えがたい、と私は言う。なぜならその感情は、荒涼とした、あるいはもの凄《すご》い自然のもっとも峻厳《しゅんげん》な姿にたいするときでさえも常に感ずる、あの詩的な、なかば心地よい情趣によって、少しもやわらげられなかったからである。
 ——エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」(佐々木直次郎・訳)より

◎舌の筋肉を鍛える(一)

 カツゼツの衰えをふせぐためには、舌の筋肉を鍛えることが有効だ。その方法のひとつを紹介する。
 唇を閉じたまま、舌を唇の内側に突き出す。上の前歯の歯茎の根元まで舌先を伸ばす。見た目はちょっと間抜けな表情になってしまうかもしれない。いわゆるモンキー的な顔つきになる。
 そのまま上前歯の歯茎を舌先でゆっくりなぞっていくのだ。最初は左回りにしてみよう。右回りでもかまわない。ゆっくりと、二秒で歯一枚分くらい移動するくらいの速度で、歯茎を舌先でなぞっていく。
 しばらくすると、舌先は奥歯に達し、さらに奥歯の一番奥の頬の内側の突き当たりの部分に達する。そうしたら、今度は舌先を奥歯の下側に転じ、下の奥歯の歯茎の付け根をなぞっていく。今度は左から右へ、奥歯から前歯、そしてまた右の奥歯へ。
 右の奥歯の下の突き当たりまで行ったら、舌を上の右奥歯に転じ、右奥歯からふたたび上前歯の歯茎の付け根まで戻ってくる。これで半分。
 今度は左回りに同じことをやる。これでワンセット。これを日に三セットくらいやる。

2012年9月23日日曜日

9月23日


◎今日のテキスト

 昼でも暗いような深い山奥で、音吉じいさんは暮しておりました。三年ばかり前に、おばあさんが亡くなったので、じいさんはたった一人ぼっちでした。じいさんには今年二十になる息子が、一人ありますけれども、遠く離れた町へ働きに出て居りますので、時々手紙の便りがあるくらいなもので、顔を見ることも出来ません。じいさんはほんとうに侘しいその日その日を送っておりました。
 こんな人里はなれた山の中ですから、通る人もなく、昼間でも時々ふくろうの声が聞えたりする程でした。取り分け淋しいのは、お日様がとっぷりと西のお山に沈んでしまって、真っ黒い風が木の葉を鳴かせる暗い夜です。じいさんがじっと囲炉裏《いろり》の横に坐っていると、遠くの峠のあたりから、ぞうっと肌が寒くなるような狼の声が聞えて来たりするのでした。
 ——北條民雄「すみれ」より

◎カツゼツの話(四)

 カツゼツをコントロールするには、舌と口のまわりと呼吸の筋肉を使うことがわかった。つまり、これらの筋肉のクオリティをあげる訓練をすれば、カツゼツのコントロールはやりやすくなるということだ。とくに舌の筋肉は重要だ。
 なにかを読んだりしゃべったりしているときに、自分の口まわりを観察してみればわかるが、意外に口を大きく動かさなくても言葉ははっきりと伝えることができる。しかしそのとき、口の内部で舌はしっかりと正確に動く必要がある。
 毎日だれもができる、舌の筋肉群を鍛える方法をやってみよう。

2012年9月22日土曜日

9月22日


◎今日のテキスト

 秋はみづいろにはがねをなせど
 わが眼にくらく辰砂の方陣はみだれおち
 岩巣にたちくらむ豺のごと
 ひさしく激情のやまざるかな
 日は無辺にせまりてものみなの隈のふるへか
 わが肉は酸敗の草にそまりて滄々としづみゆきたり
 しらず いづこに敵のかくるや
 風の流れてはげしきなかを
 黒 ひかり病む鑿地砲台
 ——逸見《へんみ》猶吉「無題」

◎カツゼツの話(三)

 か行の子音は、ローマ字であらわせば「k」である。この子音はどのように作られるのか。まずよくよく自分がどのように「k」を作っているのか、観察してみてほしい。
 まず舌のなかほどの部分をせりあげて、口のなかの奥のほう(軟口蓋の奥)で息をせき止める。そしてその舌をわずかにゆるませてせき止めた息を漏らすとき、空気がこすれる音(擦過音)が生まれる。そのノイズのような音が「k」という子音になる。その子音に母音の「a」がくっついて「ka」すなわち「か」という音になる。
 じっくり観察してみるとわかると思うが、実に繊細で精妙な舌と口の形と呼吸のコントロールが組み合わさって、私たちは言葉の発音をしている。

2012年9月21日金曜日

9月21日


◎今日のテキスト

 更け行く秋の夜《よ》 旅の空の
 わびしき思いに 一人悩む
 恋しや故郷《ふるさと》 懐かし父母《ちちはは》
 夢路にたどるは 故郷《さと》の家路
 更け行く秋の夜 旅の空の
 わびしき思いに 一人悩む

 窓うつ嵐に 夢も破れ
 遥《はる》けき彼方に 心迷う
 恋しや故郷 懐かし父母
 思いに浮かぶは 杜《もり》の梢《こずえ》
 窓うつ嵐に 夢も破れ
 遥けき彼方に 心迷う

 ——オードウェイ「旅愁」(犬童球渓《いんどうきゅうけい》・訳)

◎カツゼツの話(二)

 カツゼツの「良い/悪い」、つまりくっきりとエッジの立った日本語発音を決めるのは、ひとつには発音のための筋肉の動きの「俊敏さ」と「正確さ」がある。
 では、ことばを発音するとき、どの筋肉が使われているのだろうか。
「あいうえお」の母音を作るのは口の形そのものだ。外側から見た形のほかに、口の内側の形も影響する。これらの「形」を作るための筋肉がまず問題になる。
 次に、子音を作るためのおもに舌の位置や動きが重要だ。たとえば「か」という音節を発音するとき、どの筋肉がどのように動いているのだろうか。

2012年9月20日木曜日

9月20日


◎今日のテキスト

 ウェーゼル河の 南の岸の、
 静かで気らくな ハメリン町に、
 いつの頃やら ねずみがふえて、
 そこでもチュウチュ ここでもチュウチュ、
 ねずみのお宿《やど》は こちらでござる。

 猫にゃかみつく 赤んぼはかじる、
 犬とけんかも するあばれかた。
 帽子にゃ巣をくう 着物はやぶる、
 奥さん方の おしゃべりさえも、
 きいきいごえで けされる始末《しまつ》。

 ——ロバアト・ブラウニング「魔法の笛」(楠山正雄・訳)より

◎カツゼツの話(一)

 カツゼツは「滑舌」と書く。
 なめらかな、というより、くっきりはっきりとエッジの立った、輪郭の明瞭な発音について、それを「滑舌がいい」という。
 自分のカツゼツに問題をおぼえている人はかなり多くて、私のところにやってくる多くの人が、「最近なにかいっても聞き返されることが多くて」とか「なんとなくもごもごした感じでしゃべってしまうのが嫌なんです」という悩みを抱えていることがある。
 カツゼツについてそれはどういうことなのか、どういう要件を満たせば「よい」ということになるのか、少しかんがえてみよう。

2012年9月19日水曜日

9月19日


◎今日のテキスト

 おい木村さん信《しん》さん寄ってお出よ、お寄りといったら寄っても宜いではないか、又素通りで二葉《ふたば》やへ行く気だろう、押かけて行って引ずって来るからそう思いな、ほんとにお湯《ぶう》なら帰りに屹度《きつと》よってお呉れよ、嘘っ吐きだから何を言うか知れやしないと店先に立って馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいうような物の言いぶり、
 ——樋口一葉「にごりえ」より

◎呼吸法がつづかない(二)

 まずは自分のニーズを確認すること。
「呼吸法をやらなければ」と義務的にかんがえる前に、自分の健康のニーズ、休息のニーズ、安心のニーズなどがあることを確認し、そのために呼吸法をやりたいのだということを確認する。
 またその確認のタイミングだが、毎日の生活のリズムのなかで自分のニーズをかならず確認する時間を持つようにする。
 ここで大事なのは、「呼吸法をやる時間」を作るのではなく、「自分のニーズを確認する時間」を作るということだ。
 私の場合、寝る前にかならず手帳を広げて翌日のスケジュールを確認したり、今日中にやり残したことを翌日に転記することをしている。そのときに、自分のニーズも確認できれば、健康としっかりした休息のニーズのためにいま呼吸法もやっておこう、という自主的で積極的な気持ちになれる。

2012年9月18日火曜日

9月18日


◎今日のテキスト

  わが愛する者よ請う急ぎはしれ
  香わしき山々の上にありての
  ごとく小鹿のごとくあれ

 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。
 ——原民喜「夏の花」より

◎呼吸法がつづかない(一)

 音読療法の呼吸法はまちがいなく健康のためにいい、衰える呼吸筋を鍛えなおしたり、リフレッシュするのによいとわかっていながら、毎日のそれがつづかない、という訴えをよく聞く。
 たしかに毎日、決まった時間に、一定の時間をさいて呼吸法をおこなうのは、ときにはおっくうに感じることがあるかもしれない。しかし、なぜおっくうなのだろうか。
 まず、なんのために呼吸法をやるのか、自分のニーズにしっかりつながっている必要がある。自分の健康のため、心の安定のため、深い睡眠のため、自律神経をととのえるため。そしてそれらのニーズは、ひいては自分の生活の快適さや持続性や、家族との安心で心安いつながりを確保するためでもあったりする。
 毎日、そのことが念頭に浮かべば、呼吸法をおっくうがらずに積極的にやろうという気分になるだろう。
 それでもつづかない、という人は、次のことを試してほしい。
(つづく)

2012年9月17日月曜日

9月17日


◎今日のテキスト

 松戸与三はセメントあけをやっていた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽《おお》われていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鉄筋コンクリートのように、鼻毛をしゃちこばらせている、コンクリートを除《と》りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合わせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。
 ——葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」より

◎温度と湿度を感じる

 今年の秋は——というより、今年の秋も、というべきか——いつまでも暑い。九月ももう後半にさしかかり、秋のお彼岸にもなろうというのに、連日三十度を超える気温がつづいている。
 そんな東京の街を歩いていると、場所によってずいぶん気温が違っていることに気づく。私の体感では、渋谷駅が一番暑い。銀座や中野から用事で戻ってくると、渋谷は三度くらい暑苦しく感じる。湿度も高い。
 そして私が住んでいる下北沢に戻ると、やや涼しくなる。羽根木の家は緑に囲まれているせいか、さらにすっと涼しくなる。渋谷に比べると五度くらい違うような気がする。
 マインドフルをこころがけていると、自分のさまざまなセンサーがきちんと働いているのを実感できる

2012年9月16日日曜日

9月16日


◎今日のテキスト

 九月にはいつて急に末の妹の結婚がきまつた。妹と結婚をする相手は長い間上海の銀行に勤めてゐたひとで、妹とは十二三も年齡の違ふひとであつたが、何故だか末の妹の杉枝の方がひどくこのひとを好きになつてしまつて、急に自分がゆきたいと云ひ出した。
 始めは長女の登美子にどうだらうかと仲人の與田さんが話を持つて來たのであつたが、登美子は今度も氣がすすまないと云つて、與田さんの話をそのままにして過してゐた。與田さんの方では、登美子の寫眞も相手方へ見せての上のことなので、何とかして話をまとめたいと熱心であつたが、登美子はもう見合ひはこりごりだと思つてゐた。
 ——林芙美子「婚期」より

◎即興演奏と楽譜

 昨日聴きに行った知り合いのコンサートで、ミニマルな曲が演奏された。
 ミニマル曲というのは、ある音パターンを繰り返し演奏しながら、それが少しずつ変化していって風景を変化させるような音楽だ。
 おもしろい曲だったのだが、聴きながら、これと似たようなことを私は即興演奏でやっていることに気づいた。が、決定的な違いは、私の演奏は楽譜に残っていないけれど、この曲は最初から楽譜になっているということだ。
 それがいい、悪い、ではない。楽譜になっているというのは、別の演奏者が「聴く」ことではなく「弾く」ことの追体験ができることなのだ、ということに気づいた。

2012年9月15日土曜日

9月15日


◎今日のテキスト

 秋にさそわれて散る木の葉は、いつとてかぎりないほど多い。ことに霜月は秋の末、落葉も深かろう道理である。私がここに書こうとする小伝の主一葉《いちよう》女史も、病葉《わくらば》が、霜の傷《いた》みに得《え》堪《たえ》ぬように散った、世に惜まれる女《ひと》である。明治二十九年十一月二十三日午前に、この一代の天才は二十五歳のほんに短い、人世の半《なかば》にようやく達したばかりで逝《い》ってしまった。けれど布は幾百丈あろうともただの布であろう。蜀江《しょくこう》の錦《にしき》は一寸でも貴く得難い。命の短い一葉女史の生活の頁《ページ》には、それこそ私たちがこれからさき幾十年を生伸びようとも、とてもその片鱗《へんりん》にも触れることの出来ないものがある。一葉女史の味わった人世の苦味《にがみ》、諦《あきら》めと、負《まけ》じ魂との試練を経た哲学――
 ——長谷川時雨「樋口一葉」より

◎人に大切にされること

 昨日、伸びた髪を切りに行った。だいたい三か月に一度のペースで切りに行く。
 髪型にはまったく執着はなくて、髪を洗ったあとやプールで泳いだあとにバッと乾かしてそのまま楽にしていられる短い髪であればいい。洗ったあとや出かける前に時間をかけてセットしなければならないような髪型は、ちょっと避けたい。
 というわけで、行きつけの美容院でお任せで、いつも「さっぱりして」とリクエストして切ってもらっているのだが、昨日は私のことを「かっこよくしたいです」と大事にあつかってくれるリュウくんが担当してくれた。私がすこしでも私らしく、かっこよくいられるように心をくだいて自分の技術を使ってくれる人に扱われるというのは、とてもありがたく気持ちのいい時間なのだった。

2012年9月14日金曜日

9月14日


◎今日のテキスト

 靜物のこころは怒り
 そのうわべは哀しむ
 この器物《うつわ》の白き瞳《め》にうつる
 窓ぎわのみどりはつめたし。
 ——萩原朔太郎『純情小曲集』より「静物」

◎自分の人生を金銭価値に置き換えないでほしい

 夫が稼いでいて、自分に稼ぎがないことを重荷に感じている女性のなんと多いことか。
 たかだか数十万の稼ぎがないことで夫にひけめを感じて、自分の思うような人生をあゆむことをためらっている。あなたの価値はそんなに低いのか。たかだか数十万の価値なのか。
 夫は口ではどんなことをいっているか知らないが、心の奥では金銭価値に換算できないあなたの存在を大切に思っている。もしそうでないとしたら、即座に別れてしまっても悔いはない。たった一度の有限な人生、自分の幸せや楽しみを追求してもバチはあたらない。
 微々たる稼ぎがあろうがなかろうが、あなたの存在することの価値に変わりはないことを確認しておいてほしい。

2012年9月13日木曜日

9月13日


◎今日のテキスト

 証 証 証城寺
 証城寺の庭は
 ツ ツ 月夜だ
 みんな出て 来い来い来い
 己等《おいら》の友達ア
 ぽんぽこぽんのぽん

 負けるな 負けるな
 和尚さんに負けるな
 来い 来い 来い 来い来い来い
 みんな出て 来い来い来い

 証 証 証城寺
 証城寺の萩は
 ツ ツ 月夜に花盛り
 己等《おいら》は浮かれて
 ぽんぽこぽんのぽん
 
——野口雨情「証城寺の狸囃子」

◎報酬主義の危険性(二)

 経済優先主義の現代社会では、すべての行為が金銭価値に換算されてしまう。
 なにか資格を取る(ボイスセラピストを含む)ことでどれほどの収入を得られるのだろうか。この仕事でどのくらいの収入を得ていて、そのことが価値を持っていると考えられているのか。
 だれかのために心をくだいてやっている行為(たとえば家事や介護)も、それが報酬を得られないものであるとき、軽んじられてしまう傾向はないだろうか。
 だとしたら、収益を生まない行為は価値がないのだろうか。生産性のない子どもやお年寄りは、この世に存在する意味がないのだろうか。
 一見生産性のない人を大切にできる社会こそ、豊かな社会なのではないかと私は思う。

2012年9月12日水曜日

9月12日


◎今日のテキスト

 一体子供は賞《ほ》められる方へ行きたい者である。小さい奴は銭勘定で動くものでない。日本人は賞められるのを最も重く思うことは、日本古来の書物を読んでも分る。日本人と西洋人との区別はその点に在るので、日本人は悪くいえばオダテの利く人間である、良くいえば非常に名誉心の強い人間である。譬えば日本の子供に対しては、このコップを見せて、「お前がこのコップを弄《もてあそ》んではならぬ、もし過《あやま》って壊したら、人に笑われるぞ」というのであるが、西洋の子供に対してはそうでない。七、八歳あるいは十歳くらいの子供に対して、「このコップは一個二十銭だ、もしもお前がこのコップを弄んで壊したら、二十銭を償わねばならぬ、損だぞ」というと、その子供はそうかなと思って手を触れない。日本の子供には損得の問題をいっても、中々頭に這入《はい》るものでない。
 ——新渡戸稲造「教育の目的」より

◎報酬主義の危険性(一)

 だれかに用事をしてもらおうと思って、「千円でこれをやってくれない?」と頼むと、その人は喜んで千円を受け取ってその用事を片付けてくれる。次の機会におなじ用事を頼もうと思ったら、やはり千円をあげなければその人は用事をしてくれない。
 最初から「お礼はできないんだけど、あなたにこれをやってもらえると私はとても助かる」といって用事を頼むと、やはりおなじようにやってくれるばかりか、それ以降も報酬がなくてもつづけて用事をやってくれるかもしれない。
 人はだれかのためになにかするとき、本来報酬が目当てではないのだ、ということをまず理解しておく必要がある。

2012年9月11日火曜日

9月11日


◎今日のテキスト

 たけのこは はじめ じびたの したに いて、あっち こっちへ くぐって いく もので あります。
 そして、あめが ふった あとなどに ぽこぽこと つちから あたまを だすので あります。
 さて、この おはなしは、まだ その たけのこが じびたの なかに いた ときの ことです。
 たけのこたちは とおくへ いきたがって しようが ないので、おかあさんの たけが、
「そんなに とおくへ いっちゃ いけないよ、やぶの そとに でると うまの あしに ふまれるから」
と しかって おりました。
 しかし、いくら しかられても、ひとつの たけのこは どんどん とおくへ もぐって いくので ありました。
 ——新美南吉「たけのこ」より

◎眠れない夜は

 自分は夜すぐに眠れるけれど、友だちがなかなか眠れなくて睡眠導入剤を使ったりしているので、なにかいい方法はないか、という相談を受けた。
 音読療法の呼吸法、とくにボトムブレッシングは、副交感神経を優位にして睡眠導入に有効なこと、また反芻思考を断ちきることにも有効なことを伝え、その方法を教えた。といっても、とても簡単な呼吸法だ。シンプルな呼吸法だが、身につければ睡眠時にかぎらず、パワフルなストレスマネジメントの方法にもなる。
 睡眠導入がうまくできずに、悶々としていたり、お酒をやめられなかったり、睡眠導入剤に頼ったりする人がとても多い。副交感神経を優位にする呼吸法、呼吸の観察による反芻思考の切断とマインドフルネスの実践で、快適な睡眠を手にいれてほしい。

2012年9月10日月曜日

9月10日


◎今日のテキスト


 電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰いたいのだが、いつ撮りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
 私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断わろうとしたのである。
 雑誌の男は、卯年《うどし》の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。

 ——夏目漱石『硝子戸の中』より

◎介護予防アーティスト養成講座

 私がメイン講師を務めるNPO法人アート・ビート・ハート主催の「介護予防アーティスト講座」が11月11日からスタートする。
 介護予防とは介護を必要としない元気な身体で老後を迎えるための健康法を促進する運動で、養成講座は音楽家などアーティストを中心に、音楽療法、音読療法を組み合わせたプログラムをマスターしてもらうために開催される。とくに若手アーティストに参加してもらいたく、30歳未満の方は無料で受講して資格取得をめざしてもらえる。
 音読療法、音楽療法、運動指導法、即興演奏法、共感的コミュニケーションなど、充実した内容の講座なので、興味のある方はまずは問い合わせていただきたい。
 アート・ビート・ハートのメールアドレス「artbeatheart2011@gmail.com」または音読療法協会「info@voicetherapy.org」まで。

2012年9月9日日曜日

9月9日


◎今日のテキスト

幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処《ここ》での一《ひ》と殷盛《さか》り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁《はり》
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒《さか》さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋《やね》のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 ——中原中也『山羊の歌』「サーカス」より

◎「場違い」と感じるとき

 講座やワークショップでたまたま若い人が多く参加しているとき、ひとりだけ混じっている年配の方がとても恐縮されることがある。「自分のような年寄りがこんな場所に参加してしまっていいのだろうか」と。
 そういう方のニーズはなんだろうかとかんがえる。場の雰囲気を壊さないこと、調和を大切にしておられるのだろうか。あるいは加齢による自分の能力や感受性の衰えを気にしておられるのだろうか。
 年齢であれ、障碍を含む身体状況であれ、性別であれ、性格であれ、社会的立場であれ、その方の「個性」を構成する一要素であり、それぞれを大切にするけれど、そのことによって参加条件を加えるようなことはない、ということを、音読療法の場においては約束したい。

2012年9月8日土曜日

9月8日


◎今日のテキスト

 国原はやみの夜空におほはれて星あきらかに天の川流る

 山かげの桃の林に星落ちてくわし少女は生れけむかも

 ぬば玉の闇の夜空に尾をひきて遠津海原ほしとびわたる

 ——長塚節『長塚節歌集 上』「星」より

◎自分の声(三)

 自分の声を「いやだ」と思う感情は、自分の声がいつも聴いている声と違っている違和感と、こうありたいというイメージとのズレから生まれる。
「いやだ」と思いつづけているうちは、自分の声で自分を表現することにうしろめたさを感じてしまう。まずは「この声は自分以外の他人全員が聴いている声なのだ」という認識を持ち、ありのままの自分の声を認めることから始める。他人にはこのように聴こえている自分の声を、いいとか悪いとか、好きとか嫌いという基準ではなく、ただ「このような声なのだ」という受容ができたとき、その声で自分を伝えたり表現するときの「ありのまま」であることの落ち着きを得ることができるだろう。
 自分の声が嫌いだからといって、作り声の練習をしたり、あこがれの練習をしたりしても、永遠に自分自身の声を認めることなく自分の存在そのものを否定したまま人生をすごすことになってしまう。それほど自分自身にとってかわいそうなことはないだろう。

2012年9月7日金曜日

9月7日


◎今日のテキスト

 あの人は今度こそ助からない。三度目の卒中だった。毎晩毎晩、僕はあの家の前へ行っては(学校は休みに入っていた)、明かりの点《とも》っている四角い窓を見つめた。来る晩も来る晩も、ほんのりと一様に、変らず明りが点っていた。もし亡《な》くなったのなら、暗く翳《かげ》ったブラインドに蠟燭《ろうそく》の影が映るはずだ。死んだ人の枕元《まくらもと》には二本の蠟燭を立てることになっているのだから。
 ——ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』(柳瀬尚紀・訳)

◎自分の声(二)

 人が聴いている自分の声と、自分が聴く自分の声がちがって聴こえるのは、こういうわけだ。
 人が聴いている自分の声は空気の振動として空気を伝わってくる。しかし、自分が聴いている自分の声は、空気振動のほかに、直接骨を伝わってくる振動がある。
 声帯の震えとして生まれた声は、空気中に伝わると同時に、喉から自分自身の骨へと伝わり、それが顎、頭蓋骨を通って直接内耳へととどく。自分が聴いている自分の声は、そのふたつの合成音である。
 通常、合成音は、空気伝導音より低く落ち着いた音として聴こえる。なので、レコーダーで録音した自分の声を聴いたとき、たいていの人は思ったよりうわずったような自分の声に違和感をおぼえ、反射的に「いやだ」と感じてしまうのだ。

2012年9月6日木曜日

9月6日


◎今日のテキスト

 あれ、松虫が鳴いている。
 ちんちろちんちろ、
 ちんちろりん。
 あれ、鈴虫も鳴き出した。
 りんりんりんりん、
 りいんりん。
 秋の夜長を鳴き通す、
 ああ、おもしろい虫のこえ。

 きりきりきりきりこほろぎや、
 がちゃがちゃがちゃがちゃ、
 くつわ虫、
 あとから馬おいおいついて、
 ちょんちょんちょんちょん、
 すいっちょん。
 秋の夜長を鳴き通す、
 ああ、おもしろい虫のこえ。
 ——文部省唱歌「虫のこえ」

◎自分の声(一)

 音読療法や朗読体験に来られる方のほとんどが「自分の声が嫌い」という。自分の声が好きという方はめったにおられない。百人のうち数人いるかいないか、という印象だ。
 しかしそれは当然のことで、自分が聴いている自分の声は、他人が聴いている自分の声とはかなり違っている。録音するなどして自分の声を客観的に聴く機会があると、たいていは「変な声!」と思ってしまうのだ。
 それにはちゃんと理由がある。

2012年9月5日水曜日

9月5日


◎今日のテキスト

 俳諧師《はいかいし》松風庵蘿月《しょうふうあんらげつ》は今戸《いまど》で常磐津《ときわず》の師匠をしている実の妹をば今年は盂蘭盆《うらぼん》にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛《ひざか》りの暑さにはさすがに家《うち》を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水《ぎょうずい》をつかった後《のち》そのまま真裸体《まっぱだか》で晩酌を傾けやっとの事膳《ぜん》を離れると、夏の黄昏《たそがれ》も家々で焚《た》く蚊遣《かやり》の烟《けむり》と共にいつか夜となり、盆栽を並べた窓の外の往来には簾越《すだれご》しに下駄の音職人の鼻唄人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸を出るのであるが、その辺の涼台《すずみだい》から声をかけられるがまま腰を下すと、一杯機嫌の話好に、毎晩きまって埒《らち》もなく話し込んでしまうのであった。
 ——永井荷風『すみだ川』より

◎音読カフェのこと

 昨日、銀座教室で音読カフェがおこなわれた。おかげさまで盛況であった。
 呼吸法によるプレゼンスの意識からマインドフルネス、音読による表現のイキイキした楽しさを、皆さんにいくらかでも体験してもらえたのではないかと思う。
 カフェタイムに少し解説した共感的コミュニケーションにも興味を持っていただけたようだ。コミュニケーションに問題を覚えていたり、ストレスを感じている人は多い。これを解決することで大きなストレス対策になるし、心の健康を増進することにも役立つ。
 音読カフェは今日も開催する。参加費1,000円。

2012年9月4日火曜日

9月4日


◎今日のテキスト

 硝子戸《ガラスど》の中《うち》から外を見渡すと、霜除《しもよけ》をした芭蕉《ばしょう》だの、赤い実の結《な》った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
 その上私は去年の暮から風邪を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
 しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為《し》たりする。私は興味に充《み》ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。
 私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。
 ——夏目漱石『硝子戸の中』より

◎音読療法・銀座シリーズ

 今日9月4日から、まさに「銀座シリーズ」とも呼ぶべき一連のイベントが始まる。というのはちょっとおおげさだけれど。
 銀座二丁目の西欧ギャラリーを利用しての「音読カフェ」や「2級ボイスセラピスト講座」が次々と開催されるので、興味のある方は気軽に参加またはお問い合わせいただきたい。とくに音読カフェは参加費1,000円と気軽に音読療法を体験できるので、おすすめだ。
 くわしくは音読療法協会の公式ホームページをご覧ください。

2012年9月3日月曜日

9月3日


◎今日のテキスト

 禅智内供《ぜんちないぐ》の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋《あご》の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥《しゃみ》の昔から、内道場供奉《ないどうじょうぐぶ》の職に陞《のぼ》った今日《こんにち》まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論《もちろん》表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来《とうらい》の浄土を渇仰《かつぎょう》すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧《おそ》れていた。
 ——芥川龍之介「鼻」より

◎懐かしいという感情

見覚えのある風景や古い写真、昔好きだったモノを見つけたときなど、「懐かしい」という感情がわく。とても暖かく気持ちのいい感情だが、そればかりにひたるのは危険性もある。
「懐かしさ」は自分のなかの「変わらずにある好ましい思い出」にアクセスすることであり、それ自体は問題ないのだが、度をすぎると「逃避」になり、また「反芻思考」におちいることもある。
「いまここ」の現実から目をそむけ、好ましい思い出にひたりきることで逃避する。繰り返し繰り返し、好ましい思い出を反芻する。そのことによってマインドフルから遠ざかり、不確定性に満ちた現実世界に立ちむかう力を失ってしまうことになる。
思い出や懐かしさにひたりきることについての自覚と客観性を持ちたい。

2012年9月2日日曜日

9月2日


◎今日のテキスト

 ――ほこりっぽい、だらだらな坂道がつきるへんに、すりへった木橋がある。木橋のむこうにかわきあがった白い道路がよこぎっていて、そのまたむこうに、赤煉瓦《あかれんが》の塀と鉄の門があった。鉄の門の内側は広大な熊本煙草《たばこ》専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反《そ》らしている。――
 いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい坂道をおりてきて、鉄の通用門がみえだすあたりから足どりがかわった。
 ——徳永直「白い道」より

◎宿題ができなかった人にどう対するか(二)

 宿題をやれなかったことの背後には、ニーズがありながら意に反して別の(目先の)ニーズが優先されてしまったという後悔があることが多い。やらなかったことを責めるのではなく、苦い後悔に共感し、本当のニーズをいっしょに探してみる。
 たいてい、本来持っていたはずの学びのニーズなどの自分が大切にしていたことにもう一度気づくことになり、宿題をやることの大切さを確認し、積極的に宿題に取りくむための動機を持ちなおすことができる。
 時間を費やしてそのプロセスを持つことで、宿題をやってもらうことだけでなく、学びのニーズを再確認してもらうことで、より講座に積極的に関わってもらえるようになることで、こちら側の貢献や効率性や理解やつながりのニーズを満たすことができる。

2012年9月1日土曜日

9月1日

◎今日のテキスト

 明治十四年の夏、当時名古屋鎮台につとめていた父に連れられて知多《ちた》郡の海岸の大野とかいうところへ「塩湯治《しおとうじ》」に行った。そのとき数え年の四歳であったはずだから、ほとんど何事も記憶らしい記憶は残っていないのであるが、しかし自分の幼時の体験のうちで不思議にも今日まで鮮明な印象として残っているごく少数の画像の断片のようなものを一枚一枚めくって行くと、その中に、多分この塩湯治の時のものだろうと思う夢のような一場面のスティルに出くわす。
 海岸に石垣のようなものがどこまでも一直線に連なっていて、その前に黄色く濁った海が拡がっている。数え切れないほど大勢の男がみんな丸裸で海水の中に立ち並んでいる。去来する浪に人の胸や腹が浸ったり現われたりしている。自分も丸裸でやはり丸裸の父に抱かれしがみついて大勢の人の中に交じっている。
 ただそれだけである。
 ——寺田寅彦「海水浴」より

◎宿題ができなかった人にどう対するか(一)

 音読療法の講座では、ときどき、次の講座までに宿題してくるようにお願いすることがある。たいていは、なにか実際にやってみてそのレポートを書いてきてほしい、というような内容である。
 それをやって来ない人がいる。そういう人にどう対処するか。
 宿題をしてこなかった、だめじゃない、次はやってきてね、ではなにもよいことは起こらない。その人がなぜ宿題をやれなかったのか、宿題をやることのほかにどんなニーズが優先されたのか、共感的にきいてみる。思いがけない答えが返ってくることがある。