2014年12月31日水曜日

「マインドフルな毎日」のご愛顧ありがとうございました

2014年元旦から、毎日連載してきたブログ「マインドフルな毎日」は、本日の12月31日号(Vol. 365)を持って終了いたしました。
これまでお付き合いいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
ただの一日も欠かすことなく、奇跡のように書きつないでこれたのは、ひとえにみなさんからの声援のおかげです。
「読んでるよ」のひと声が私に勇気と力を与えてくれました。

せっかく365日間連載したので、ちゃんと最初から読んでなかったという方には、明日から最初の1月1日にもどって読んでいただけるとうれしいです。
またその前年に、やはりこれも毎日連載した「音読日めくり」というコンテンツもあり、これまた1日1項目ずつ1年間読めるようになっています。
「音読日めくり」はたまたま閏年だったので、366回分あります。

2015年はまたあらたな気持ちでお会いしましょう。
みなさんがマインドフルに新年を迎えられますように。

マインドフルな12月31日

この世に罪を負っていない人はひとりもいません。
どんなに清廉潔白に見える人でも、正直ものと評判の人でも、なにかしら罪を持っています。
ここでいう「罪」とは法律に関係することではありません。
自分の保身のためについてしまった嘘、人からほめられたくて隠れておこなったずる、自分や自分の家族を守るために他人を傷つけてしまったこと。
罪が多かれすくなかれ、だれもがいまこの瞬間のまったくあたらしい、だれも出会ったことのない自分自身に立ちもどることができます。
それがマインドフルネスです。
自分自身ですら知らないいまこの瞬間のフレッシュな自分自身、だれもがこのスタート位置からあらたに踏みだすことができるのです。

マインドフルの練習(365)
一年間の練習の成果をためしてみましょう。
しずかにすわり、深くふかく呼吸をしてみましょう。
そこにあなたはいますか?
いまこの瞬間の自分自身の存在とまわりのことに気づきつづけることができますか?
そこからまたあらたにマインドフルな時間のなかへと進んでいくことを試みてみます。
人生はその連続です。

2014年12月30日火曜日

マインドフルな12月30日

私は自分が体験してもいないことを、あたかも自分の体験のように自信たっぷりに語ってしまうことがあります。
人から聞いた話を、自分がオリジナルにかんがえた話のように伝えてしまうことがあります。
自分を本物らしく見せたいというつよい欲求があるのです。
逆にいえば、自分は本物ではないという内側からの声にいつも苦しめられています。
なにが本物でなにが本物でないのか、なにが自分自身のことで、なにが自分の外側のことなのか、それを見極めるのはとても骨の折れるむずかしいことです。
しかし、そのことによってたとえ自分が築きあげてきたすべてのものを失ってしまうとしても、いつかは本物の自分自身に立ちもどりたいという願いがあることにもまた、気づいています。

マインドフルの練習(364)
日記をつけている人なら日記を、手帳を持っている人なら手帳を見て、この一年間を振り返ってみましょう。
なにも記録していない人なら、カレンダーを見たり、メールの記録をさかのぼるのもいいでしょう。
そこにあるのはあなたの「過去」の記録や記憶です。
そのできごとは、いまこの瞬間にはもう存在しません。
いまこの瞬間の呼吸とあなた自身の身体、存在を思いだし、いまの自分の存在にもどりましょう。

2014年12月29日月曜日

マインドフルな12月29日

私たち現代人は「目的意識」を肥大化させてしまっています。
なにをするにしても「目的」を設定する癖があります。
ゴミを出すという「目的」のために、自分そのものを見失います。
ゴミ袋を持っている自分の身体、それを歩き、運んでいる自分の身体や呼吸、家の内から外へと移動していきさまざまなことを感じている自分の身体そのものについて、ほとんど気づきもしません。
いわば「目的」に自分自身の存在や人生を乗っ取られたような形です。
マインドフルになり、目的から自分自身を取りもどしましょう。

マインドフルの練習(363)
メールの処理をする、といった比較的単調な仕事をしているとき、ケータイやスマートフォンのタイマーを15分おきに鳴るようにセットしておきます。
なにをしていても、タイマーが鳴ったら手を休め、呼吸に目を向けます。
みっつ呼吸を数えたら、作業にもどります。


それを繰り返します。

2014年12月28日日曜日

マインドフルな12月28日

多くの人が、自分の命は自分のものだと思っています。
はたして本当にそうでしょうか。
よくかんがえてみればわかることですが、自分の命は自分がもたらしたものではありません。
両親や先祖ばかりでなく、そういった人の存在そのものを可能にしてきたさまざまな生命、地球環境、太陽系、宇宙がいまここにあること、そういった巨大で複雑な存在から、奇跡のようにいまここにいる自分自身という存在がもたらされているのです。
それは一種の贈り物だといっていいでしょう。
この自分の命、たった一度きりの人生という贈り物を丁寧にあつかうのか、粗末にするのか、それは私たち自身にかかっています。

マインドフルの練習(362)
夜、自分の家で明かりのなかにいるとき、数分だけ明かりのスイッチを切ってみましょう。
すべての明かりを消し、数分間だけ人工照明のない暗い状態のなかに自分を置いてみます。
目を閉じる必要はありません。
なにが聞こえるか、なにを感じるか、暗いなかに自分の全体がつつまれているのはどんな感じなのか、しばらく味わってみましょう。

2014年12月27日土曜日

マインドフルな12月27日

人間はひとりで生きていけないと同時に、ひとりで生きていく必要もあります。
自立か依存か、という二者択一ではなく、自立しつつ相互依存の関係も属しているというとらえかたができます。
そのためには、それぞれが強固である必要があり、自立も相互依存もその足場がしっかりしていないとぐらつきます。
自立しておこなうこと、相互に尊重しあいながら依存関係でおこなうこと、それぞれの場面において「いまここ」の自分自身につながったマインドフルネスの意識があることで、足場は強固になっていきます。

マインドフルの練習(361)
胸の下の肋骨の下部のへりにそって、手のひらで胸をしっかりと押さえます。
息をゆっくりと吐ききっていきます。
息を吐くとき、肋骨は魚のエラが閉じるように、下に向かってすぼまっていきます。
肋骨の間にある肋間筋という筋肉の、内側のほうの層にある内肋間筋が収縮することによって、肋骨が下に向かっていく動きが生まれています。

2014年12月26日金曜日

マインドフルな12月26日

子どものころ、とくに思春期のころに、私たちはよく「自分はなんのために生きているのだろう」とか「生きていることに意味はあるんだろうか」といったことをかんがえました。
大人になるにつれ、そういうことをかんがえる頻度はしだいに少なくなりましたが、まったくかんがえないわけではありません。
あるいは、かんがえてもそこに答えがないと思っていて、かんがえるのをやめてしまいます。
「なんのために」とか「生きる意味」というのは、人が作りだす思念です。
そこをするどくかんがえることで到達する思考の深みもありますが、その思念を手放すことでしか得られない自由もあります。

マインドフルの練習(360)
両手を胸の下、肋骨の下部のへりにそってしっかりと当てがいます。
息をゆっくりと大きく吸いながら、肋骨がどのように動くのか観察します。
肋骨は魚のエラが開くように、上に向かって開いていくようすがあるはずです。
これは、肋骨の間にある筋肉である肋間筋の、外側のほうの層にある外肋間筋が収縮することによって生じる動きです。

2014年12月25日木曜日

マインドフルな12月25日

マインドフルということばを知らない人もいます。
知っていても実践がむずかしいと思う人もいます。
知っていて、いつも実践をこころがけている人もいます。
マインドフルということばは知らないけれど、無意識にマインドフルを実践できている人もいます。
最後の人たちのありようは理想的ですが、いまこれを書いている私は二番目と三番目のあいだにいます。
ここにたくさんの人がいて、また増えつづけていて、そういう人たちとつながりを持ったり、いっしょにいろいろ試してみたりするのも、ひとつの楽しみといえるでしょう。

マインドフルの練習(359)
まっすぐに立って、片足を持ちあげて前にのばしてみます。
膝は曲げてものばしていてもかまいません、その持ちあがる感じをよく味わいます。
つぎに、腰骨の下にある股関節の付け根(意外に骨盤の外のほうにあります)の部分に指をあて、そこが脚の始点だという認識をもって、もう一度足を持ちあげてみます。
どんな感じがしますか? なにかちがいは生まれますか?

2014年12月24日水曜日

マインドフルな12月24日

マインドフルネスは時間の概念と切り離してかんがえることはできません。
人は時間を、現在、過去、未来と切り分けてかんがえますが、実際には「いま、この瞬間」しかありません。
過去は人の記憶の産物であり、未来は人の想像の産物です。
そして「いま、この瞬間」は刻々とうつろっていき、ただの一瞬もおなじときはありません。
その瞬間、瞬間にいつづけ、気づきつづけていることができるかどうかが、自分のただ一度きりの人生を丁寧に生き、味わえるかどうかを左右します。

マインドフルの練習(358)
腕をまっすぐにのばし、前から後ろにむかってぐるっと円を描くように身体の横でまわしてみます。
まず、一度。
それから、首の付け根のあたりにある鎖骨の始点(ぐりぐりしている部分)に指をあて、そこが腕の始点だという認識をもって、もう一度腕をまわしてみます。
なにかちがった感じはしますか?

2014年12月23日火曜日

マインドフルな12月23日

人間は思考をする動物です。
そのことがいまの文明を築いたといえますが、個人の生活についていえばそのことがさまざまな不幸をもたらす要因になっているともいえます。
その証拠に、思考のない動物には幸も不幸もありません。
ただその瞬間に存在し、自分に必要なこと、快適なことをもとめ、危険なことや不快なことを避けようという行動があるだけです。
私たちも社会から離れて生きていけない以上、さまざまな思考の必要にせまられますが、それが過度になると不幸になりますし、思考そのものにとらわれて自分を見失ってしまいます。

マインドフルの練習(357)
なにか不安なことがあったとき——だれかから嫌なことをいわれたり、予期せぬことが起こったり——、呼吸が早くなったり、動悸が激しくなる経験はだれもがあると思います。
もしそういう状態になったとき、あえて呼吸と動悸に注目する練習をしてみましょう。
いつものよりどのくらい呼吸が早くなっているのか、脈拍が早くなっているのか、実際に数えてみるのです。
そういう状態のときはそんな余裕はないかもしれませんが、もしできたとしたら、ずいぶん落ちつけるはずです。

2014年12月22日月曜日

マインドフルな12月22日

いつも、なにごとをするのでも、マインドフルでいるのはとても困難なことです。
マインドフルネスがよいことだと知ったあとも、心がけようとおもっても、一日のうちで思いだせるのはほんの数回でしたし、とてもあわただしく余裕がない日には一回も思いだせないことすらありました。
しかし、手帳をつけたり、タイマーをかけたり、いろいろ工夫をしたり、練習をしたり、心がけることをあきらめなかったりすると、マインドフルネスのことを思いだす時間がだんだん増えてきます。
つまり、いきいきとした自分の生命につながって活動する時間がすこしずつ増えていくわけです。
いまこの瞬間の自分自身とともにあること、それがマインドフルネスということです。

マインドフルの練習(356)
ベルトのついたズボンやスカートをはいているとき、そのベルトをギュッときつく締めてみます。
その状態で、ゆっくりと息を吸っていきます。
できるだけお腹のほうに空気をいれるように吸います。
つまり、ベルトがさらにギュッと締まる感じです。


これは横隔膜を動かす呼吸法で、活力が必要なとき、これからなにか活動するぞ、というときにやってみるといいですね。

2014年12月21日日曜日

マインドフルな12月21日

ものごとを「このようにやりたい」とか、自分が「このようにありたい」と思っていることが、虚妄ではなくリアルな身体の延長線上にあることなのかどうか見極めるのは、とても困難なことです。
人はありもしないことを想像するのが得意な動物です。
自分のリアルな身体についてすら虚像を作ってしまいます。
一番確実なのは、虚妄や虚像を捨て、ただいまここにあるリアルな身体からスタートし、それがどこに行きたがっているのか緻密に、誠実に聞きつづけることなのかもしれません。
気がついたら「こんなところに来ていた」と驚くことがあります。

マインドフルの練習(355)
呼吸法をやりますが、その前に、なにかちょっと遠くの、自分にとって見えにくいもの——文字や風景、看板など——をまず見ておきます。
それから視線をはずして、普通に呼吸法をやります。
大きく吐いて、吸って、吐いて、吸って、数回やって、全身に新鮮な血液がめぐった感じがしたら、ふたたび遠くのものを見てみます。
見える感じは変わっていますか? どんなふうに変わりましたか? あるいは変わらないですか?

2014年12月20日土曜日

マインドフルな12月20日

歌をうたったり、演じたり、朗読したり踊ったり、なにかひと前で表現をおこなったとき、思いどおりにいかなくひどく悔しい思いをすることがあります。
後悔の念にかられてもう二度とやるまい、と思ったりすることすらあります。
「思いどおりにやれる」というのはどういう状況でしょうか。
人は想像力があり、それがやっかいなことを引きおこすこともありますが、「自分がこのようにやりたい、やれる」という、まだ起こってもいないことへの予想や想像にしがみついていると、実際におこなったとき、「こんなはずじゃなかった」という失望感にとらわれます。
自分がなにをどうやりたいのか、空想しているその内容について、よく検証してみる必要があります。

マインドフルの練習(354)
太陽が出ているときに、なにか動かないものの影か、窓から差しこむ光の輪郭を一分間、じっと注視してみます。
輪郭はほとんど動きませんが、実際には地球の自転とともにわずかに動いています。
その証拠に、その輪郭は一時間後には全然違う場所に移動していますね。
地球の動きを全身で想像しながら、光の輪郭をただ一分間、見つめてみましょう。

2014年12月19日金曜日

マインドフルな12月19日

生活を糧を得るための仕事を「自分の仕事」ということもできますが、そうではない自分で「これが自分の本分だ」と思うことを自分の仕事だということもできます。
たいていの人は社会が規定した「学校の先生」だの「会社員」だの「主婦」といった仕事の名称を自分にあてはめて表明したり、あるいは自分自身で生き方を規定したりしています。
しかし、そこから自由になる選択もあります。
また、学校の先生をしていながら詩人であったり、主婦でありながら歌手であったりする人もたくさんいます。
自分の選択をさまたげているのは、多くの場合、自分自身だったりします。

マインドフルの練習(353)
毎日使っているケータイ電話やスマートホンを、まずよく観察します。
その形状をできるだけ目に焼き付け、覚えておきましょう。
それから電話を見えないところに置き、紙に覚えたばかりの形状をできるだけ正確に書き写してみます。
やってみてどういうことに気づきましたか?

2014年12月18日木曜日

マインドフルな12月18日

自分は詩人である、と思っている人はたくさんいて、週末のオープンマイクなどに行くと自分が書いた詩を朗読する人たちに会えたりします。
ポエトリーリーディングというイベントですが、彼らはほとんどだれひとり、詩を書くことで生活が成り立っている人はいません。
しかし、詩を書くこと、詩を朗読して自分を表現することが、生活の中心にあって、まさに詩人として生きているわけです。
生活の糧は別の手段で得ている人がほとんどです。
人が自分を何者であるかと思うのは、社会的な枠組みで決められるのではなく、自分がなにをどう生きているかによって決まるのです。

マインドフルの練習(352)
ドアノブでも、遠くの 建物でも、机上のペン先でも、目の焦点を一点に合わせます。
そこをただひたすら、焦点を合わせて見続けてみます。
おそらく注意が切れたり、焦点が合わせられなくなったり、まばたきしたり、さまざまな理由で目がそれてしまう瞬間があるはずです。
その瞬間までなるべくがんばって合わせつづけてみてください。


どんなことに気づきますか?

2014年12月17日水曜日

マインドフルな12月17日

音楽の仕事で食べれるようになりたい、という人がたくさんいます。
そういう人の話をよくよく聞いていくと、音楽が好きで、それで生活が保証され、一日中音楽のことをかんがえたり演奏できる状況を幸せだと、漠然とイメージしているようです。
しかし、音楽がやれることと、生活の糧を得ることは、じつは別の問題です。
生活の糧を得るために音楽を使おうとすると、本質的には音楽とは関係のない、売ること、集客すること、有名になること、収益システムを維持すること、あるいは収益システムに所属しその一部になること、といったものごとに使う時間が著しく増大します。
音楽で糧を得るために、音楽とはほとんど関係のないことに膨大な時間をかけなければならない、という矛盾におちいってしまうのです。
このことは音楽に限りません。

マインドフルの練習(351)
右手で左手の手首をやや強めに握ります。
左手をぎゅっと握り、握りこぶしを作ります。
そこから左手の指をゆっくりと開いていき、ぴんと伸びるまで開ききります。
そのとき、右手に伝わってくる左手首の筋肉やすじが動くようすを観察してみます。
手を交代して反対の手もおなじように観察します。

2014年12月16日火曜日

マインドフルな12月16日

だれかが「私は自分の声が嫌い。もっと◯◯◯な声になりたい」、というとき、本当はなにを求めているのでしょうか。
たとえば「もっと澄んだよく通る声になりたい」というとき、声が通らなくて気まずかったり、つらい思いをした覚えがあったりします。
その人に必要なのは、自分のいいたいことを正しく伝えたり、自分をきちんと理解してもらうことです。
口先だけのテクニックで対処するのではなく、自分が必要としていることにきちんとつながってから、効果的な練習をすることが大切です。

マインドフルの練習(350)
まず肺の空気をできるだけ吐ききってから、ゆっくりと一杯に吸います。
肺が一杯になったら、そのまま息を止めて自分の身体のようすを観察します。
肺の中の酸素がだんだん少なくなっていくにつれて、身体のようすが変わってことを観察してみましょう。

2014年12月15日月曜日

マインドフルな12月15日

尊敬する先輩や先生に会ったとき、身体は無意識に緊張したり、礼儀正しくしようと姿勢をあらためたりします。
そういう身体性から発せられる声は、そういう声になります。
おなじことが、相手が変わってもいえます。
相手が変わったり、自分が置かれた状況が変わったり、文脈が変化したりすることで、声に変化が起こります。
これはほとんど無意識に、瞬間的におこなっていますが、そのことに自覚的になり、自分がなにをおこなっているのかに目を向けることもまた、人間には可能です。

マインドフルの練習(349)
だれかに朝の挨拶をするとき、自分の身体に注意を向けてみることを思いだしてみます。
仕事に出かけて、最初にだれかに挨拶するとき、自分の身体がどのようになっているかを見てみます。
上司だったらすこし緊張してどこかがこわばっているかもしれませんね。
親しい同僚だったら、親しみのおかげでリラックスしたり、いきいきと活動的な感じになっているかもしれません。

2014年12月14日日曜日

マインドフルな12月14日

人はさまざまなシチュエーションでさまざまな声を使い分けています。
たとえば、親しい友だちに「おはよう」と挨拶するときと、尊敬する先輩に「おはようございます」というとき、親にいうとき、近所の人に挨拶するとき、それぞれちがった声といいかたを使い分けています。
それはほとんど無意識におこなわれていて、自分でも気づかないほどです。
なぜ声やいいかたが変わるかというと、シチュエーションや文脈によって人の身体つきが変わるからです。
身体つきが変われば、声も変わります。

マインドフルの練習(348)
さまざまな声を観察してみましょう。
コンビニにはいったときの「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」、電車やバスのアナウンス、友だちに合ったときの挨拶、仕事場での挨拶、会議でのプレゼンテーション。
それぞれの人がそれぞれのシチュエーションで声を使いわけているようすを観察してみます。

2014年12月13日土曜日

マインドフルな12月13日

人の声の多様性と、それを識別する能力は、驚異的といってもいいものです。
仮に100人の知り合いがいるとして、そのなかのひとりから背後から声をかけられたとき、その声の持ち主がだれなのか、私たちはほぼ正確に認識できます。
これは私たちの識別能力の高さをしめしていると同時に、人の声の多様性もしめしています。
100人が100人、全部ちがう声を持っているんですからね。
またそのひとりひとりも多様な声を持っています。
人間は言語によるコミュニケーションをおこなっていますが、それ以上に声の情報自体によって豊かなコミュニケーションをおこなっているのです。

マインドフルの練習(347)
夜、眠くなってきたときの身体のようすを観察してみましょう。
夜でなくても、日中でも眠くなることがありますね、そういうときも観察してみます。
眠気で身体がだるくなっているかもしれません、身体のどのあたりがとくに力が抜けた感じがするでしょうか。
深部体温を放熱するために手足の末端がぽかぽかしているかもしれません。


そして指先がじんじんしているかもしれませんね。

2014年12月12日金曜日

マインドフルな12月12日

自分の本当の声がどういうものか知りたい、あるいは自分がいつも本当の自分の声でしゃべっていないという懸念を持っている人が、意外にたくさんいます。
本当の自分の声は、いまこれではない別のものである、という幻想は捨てましょう。
どの声も全部自分の声です。
人はさまざまな声を出します。
シチュエーションや自分自身の状態によっても声はさまざまに変化します。
意図的に作った声でさえ、それがなんらかの意図を持っている以上、自分の声にはちがありません。

マインドフルの練習(346)
右腕をまっすぐにのばしたまま、右側に肩の高さまであげ、できるだけぴんと遠くまでのばします。
その状態でゆっくりと深く五回、呼吸をします。
あげた右手をゆっくりと体側へとおろします。
そのとき、右手と左手、身体の右側と左側の感覚のちがいを観察してみます。
終わったら、左手もおなじようにやっておきましょう。

2014年12月11日木曜日

マインドフルな12月11日

自分の声が、録音したものと、自分でいつも聞いていてこんな感じ、と思っているものといちじるしくかけ離れた印象になってしまうことには、理由があります。
自分が聞いている自分の声は、口から出て外の空気を伝わって耳にはいってきたり、外のなにかに反射して耳にはいってきた声と、声帯の震動が骨などをつたわって直接内耳に達したもの(骨伝導)のミックスされたものとなります。
しかし、マイクで録音された声は口から出て空気を伝わってきたものしかとらえていません。
だからいちじるしくかけ離れた感じがしてしまうのです。
これはもう、慣れて、みずから受けいれるしかありません。

マインドフルの練習(345)
タオルの両端を両手でそれぞれ持ち、ぴんと左右に張ります。
そのままゆっくりと両手を頭上にあげていきます。
タオルの張りは維持してください。
これ以上行かない、というところまで両手を頭上からやや後方まで持ちあげます。
身体がそりかえり、かなり不自然な姿勢になると思います。
その緊張した身体の感じをしばらく味わってから、ゆっくりと両手をおろして緊張をといていきます。
緊張がとかれたときの感じも、またじっくりと味わってみます。

2014年12月10日水曜日

マインドフルな12月10日

自分の声を録音して聞いてみたことはありますか?
その最初の経験のとき、たいていの人は「自分の声はこうだ」と思っていたものからあまりにかけ離れた感じのものなので、びっくりします。
私もそうでした。
あまりにかけ離れすぎているために、それがきっかけで自分の声が嫌いになってしまう人もいるかもしれません。
私もしばらくは自分の声が「なんていやな声なんだ」と思っていました。
しかし、その声は、自分以外の人全員が聞いている声なのです。

マインドフルの練習(344)
立っている姿勢で片手を肩のあたりまで持ちあげます。
肩にさわる必要はありません。
手を持ちあげるためにある程度の筋肉を使っていると思いますが、その筋肉を脱力する要領で、手を重力にまかせてすとんと下に落とします。
そのとき、腕だけでなく身体全体に動きや震動が伝わっていくようすがありますが、それを観察してみます。
何度か繰り返してみましょう。

2014年12月9日火曜日

マインドフルな12月9日

自分の声が嫌いだ、という人はかなり多いようです。
いつから嫌いになってしまうんでしょう。
自分の声が嫌い、なんていう子どもはいません。
大人になると、自分の声を客観的に聞いたり、人からいわれたり、人と比較したりして、嫌いになってしまうのでしょう。
これがいい声、とか、理想の声、というものがいつのまにかイメージとして形成されてきて、それと自分の声にずれをおぼえたとき、いやだ、嫌いだという感情が生まれるようです。
そんなふうに自分の声を嫌っても、それから逃げることはできません。

マインドフルの練習(343)
椅子にすわり、背もたれに背中をあずけます。
片足をまっすぐに投げだすようにのばし、かかとで床をトン、トンと軽く打ってみます。
かかとが床にあたった震動が、ふくらはぎ、膝、太ももへと伝わってくるのを感じますか?
その震動がさらに身体全体へと伝わっていくようすも観察できるかもしれません。

2014年12月8日月曜日

マインドフルな12月8日

人の話を聞く技術にはさまざまなものがあります。
よく耳にするのは「傾聴」あるいは「リフレクション」など。
いずれも聞く側である自分を抑制して、ただひたすら相手の話に耳を傾ける、あるいは相手のいったことばや内容を繰り返すことで、相手の話を深く聞こうとする技術です。
これはこれで有効であり、話すほうもみずから自分の内側を見て相手に伝えるように導かれますが、共感的コミュニケーションでは自分も「積極的にある」ことを捨てません。
相手の話をきちんと聞きたい、相手を理解したい、という自分の気持ちや動機に積極的につながら、くっきりとマインドフルに自分がそこにありつづけながら、聞くのです。

マインドフルの練習(342)
両手をあげ、目の前で五指を広げます。
右手の親指から順番に指を折りながら「一、二……」と数えていき、全部で「十」まで数えます。
最後までいったら、今度は左手の小指から順番に指を開きながら、また「十」まで数えて五指を開ききります。
指が折られていくとき、開いていくとき、それぞれの過程の手の感じを味わいながらおこないます。

2014年12月7日日曜日

マインドフルな12月7日

ボイスコーチングをしていると、よく、「聞き上手になりたい」という人に出会います。
「なぜですか?」とたずねると、「自分ばかり話すのではなく、相手の話も聞けるようになりたい」とか「相手の話をさえぎることなく全部聞いてあげたい」という答えです。
つまり、その人には、相手の話をきちんと聞くことによって相手とつながりたい、相手を理解したい、という気持ちがあるわけです。
その自分の気持ちをまず大事にするところが、聞き上手になる出発点となります。
よく、聞き上手というと、自分のことを棚にあげてひたすら相手に寄りそうことだけに集中するかのように思っている人がいるかもしれませんが、それはちがいます。

マインドフルの練習(341)
炭酸飲料を飲んでみます。
苦手な人は、天然の発泡性ミネラルウォーターでもいいでしょう。
すぐに飲みこまず、口にふくんだら、口のなかでどのよう発泡がすすみ、どのような刺激が舌や口中に生まれていくのか、じっくり観察してみましょう。

2014年12月6日土曜日

マインドフルな12月6日

毎日、習慣的におこなっている自分の「おこない」を手放す、というのも、物を捨てるのと同様、いやそれ以上にやっかいなことです。
たとえば、テレビを観ているときに、自分の気にいらない言動をするタレントや政治家、評論家が出てきたとき、つい批判したり毒づいたりしてしまう。
そんなことをしてもなにもいいことは起こりません。
それより、彼らがなぜ自分のこころをかき乱すのか、自分が大切にしているなにが踏みにじられるような気がして怒りをおぼえるのか、そこの部分に注意深く目を向けてみることで、反射的におこないやふるまいを手放したり、変えたりする可能性が生まれます。

マインドフルの練習(342)
いつものぼったり降りたりしている階段で、人がいないときを見計らってゆっくり後ろ向きにのぼったり降りたりしてみます。
足を踏みはずさないように充分に注意しておこなってください。
かなりの緊張が生まれると思いますが、その緊張のなかで自分の身体がどのように働くのか、ゆっくりと観察してみます。

2014年12月5日金曜日

マインドフルな12月5日

断捨離ということばが流行したり、人々の生活に大きな影響をあたえたりすることからわかるように、不要な物を捨てるというのはむずかしいものです。
いったん手にいれたものは、そのもの本来の価値以上に思いいれがあり、捨てられません。
では、それがいま手元にないと仮定して、あらためてお金を出してそれを買いなおすかというと、そうでもないことが多いですね。
そういうときは思いきって捨てられます。
毎日なにげなく、かんがえなしにおこなっている自分のおこないそのものも、そうかもしれません。

マインドフルの練習(341)
家のなかでも仕事場でも、いつもなにげなく歩いて移動している場所があるかと思います。
その場所に立って、後ろ向きにおなじルートをゆっくり歩いてみてください。
物や人にぶつからないように、けがのないように注意しておこなってください。
ちょっと緊張があると思いますが、その緊張が自分の身体にどんな変化をもたらすのか、観察してみます。

2014年12月4日木曜日

マインドフルな12月4日

出かけるときに持っていくカバンの中身をチェックしてみましょう。
なかにはいっているものを全部出して床にならべ、それらが本当に必要なものかどうか、あらためてチェックしてみます。
私の場合、持って出てもたぶん一度も使わないだろうというものがいくつか見つかります。
なぜ使わないかもしれないものを持って歩いているのかというと、ひょっとして必要になるかもしれないから、という用心からですね。
しかし、本当にそれがないと困るのか、ちょっとかんがえてみます。

マインドフルの練習(340)
まっすぐに立ち、左右にゆっくりと身体をねじってみます。
なるべく安定をたもち、ねじれすぎないように軽く右、左、それぞれに上半身をねじり、その感じを味わいます。
つづいて両手でなにか、たとえば本のようなものを捧げ持ち、それを動かす意識でおなじように左右に身体をねじってみます。
どんなふうに感じは変わりましたか? あるいは変わりませんか?

2014年12月3日水曜日

マインドフルな12月3日

なにかあらたにやってみたいと思っていることがあって、なかなかそれに踏みだせないでいるとき、あなたのなかにはどんなとどこおりがあるんでしょうか。
たとえばいつか挑戦してみたいと思っていたギターの練習、あるいは料理、英会話。
取りかかるのにおっくうだと思っている気持ちの奥には、難しくて挫折したらどうしよう、とか、人に知られるのが恥ずかしい、といった気持ちが隠れていないでしょうか。
いずれも他人の評価を気にして態度です。
やってみたい、という好奇心やモチベーションのあなたのなかにあるものです。
そこをマインドフルにしっかりと見つめてみたいですね。

マインドフルの練習(339)
いつも何気なくカチャカチャと打っているコンピューターのキーボードですが、あらためて注目してみましょう。
打鍵するとき、指はどのように動いているのか、どのくらいの強さで打っているのか。
あらためて意識して、ゆっくりと丁寧に打ってみるとどんな感じがするのか。
マインドフルネスを意識して、自分の呼吸や身体のことも忘れないようにしながら、打ってみましょう。

2014年12月2日火曜日

マインドフルな12月2日

一年も最後の月になりました。
来年こそ「〜をやりたい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
今年、あるいはこれまでにできなかったことで、あらたになにかやってみたいと思っていることがあるんじゃないでしょうか。
もしそれが、いますぐに始められることなら、いますぐ、今日から始めてみてはいかがでしょうか。
なにかあたらしいことに取り組むとき、そこには不安や怖れがまじっていて踏みだしにくいこともありますが、それ以上に発見や成長の可能性もあることに気づけば、踏みだすステップは軽くなります。

マインドフルの練習(338)
階段を降りるとき、トントントンと軽くリズムをつけると楽ですね。
しかし、それを意識的にやめて、一歩一歩ゆっくりと、足の裏を段にしっかりつけるようにして降りてみてください。
足の裏の感じ、脚の感じ、身体全体がしっかりとまとまっている感じなどに注意を向けて、階段を降りてみます。

2014年12月1日月曜日

マインドフルな12月1日

孤独を楽しめるようになると、人生はより豊かになります。
孤独であることは寂しさにもつながりますが、寂しさすら味わえれば、それも人生の味わいのひとつになります。
現代社会はいつもだれかがまわりにいたり、メールやSNSでたえずだれかと連絡を取りあっていたり、いわば人の雑音にかきまれて生きています。
ときにはその雑音から離れ、自分の内側の音だけに耳をかたむけ、自分自身の存在や価値、いま必要としていること、自分の楽しみや喜びをゆっくりと味わってみる時間が必要です。
自分という孤島の空間と時間を確保するのです。

マインドフルの練習(337)
名刺とかポイントカードのようなものを一枚、用意します。
それを親指と人差し指のあいだに、立ててはさんで、片面が自分に見えるようにします。
反対側の手でカードをいったん引き抜きます。
親指と人差し指の間隔はしばらくそのままにしておきます。
いったん手をもどし、それからまた親指と人差し指をおなじ間隔に開きます。
そこへ引き抜いたカードをすべり戻します。
カードは元どおりにぴたっとおさまりましたか?

2014年11月30日日曜日

マインドフルな11月30日

友だちはたったひとりかふたりいるだけでありがたいものですが、ひとりも友だちがいない人もきっといることでしょう。
その人は不幸なのでしょうか。
人の幸福/不幸は友だちがいる/いないで決まるものではありません。
ましてや友だちの数の多寡で決まるものでもありません。
友だちがひとりもいなくても、自分がいまここにいて、自分の存在価値に気づいていられること、やりたいことがあって夢中でそれに取りくむ時間があること、そういうことがその人を輝かせてくれます。
また、友だちがいたとしても、ときに孤独になって自分自身を味わうことは大切なのです。

マインドフルの練習(336)
両手になにも持っていない状態で階段をあがってみます。
リュックなどは背負っていてもかまいません。
両手の指は力を抜いていると思いますが、あえてピンと力をいれて張ってみます。
指を張ったまま、階段をのぼります。
そのあと、今度は指の力を抜いて階段をのぼりなおしてみます。


感じは変わりましたか? とくに身体全体の感じに注意を向けてみてください。

2014年11月29日土曜日

マインドフルな11月29日

いまはフェイスブックやLINEなどのSNSで多くの人と知り合い、つながりあうことができる時代です。
私のところにも毎日のように「友だち申請」が来ます。
一度も会ったことのない人とも「友だち」になってしまいます。
やっきになって「友だち」の数を増やし、孤独をまぎらわせようとする人もいるようです。
しかし、それはほんとうの「友だち」でしょうか。
じつをいえば、私にはほんとうの友だちといえる人はとても少ないのです。
ひとりか、ふたり、でも彼らとはたとえ何年も会わなくても、ほとんど連絡を取らなくても、見えないつながりを感じていて、そのたったひとり、ふたりがいるということが、私に暖かさをもたらしてくれます。

マインドフルの練習(335)
片足立ちになります。
そしてあげたほうの脚を、膝を折りながら、太ももをできるだけ胸に近づけます。
バランスを取りにくくなってグラグラするかもしれませんね。
そのとき、手はどうなっていましたか? 忘れていたり、おろそかになっていたかもしれません。
つぎに、両手をしっかりと開いて、指先まで力を通すようにして、おなじことをやってみてください。
安定感は変わりましたか? それとも変わりませんか?

2014年11月28日金曜日

マインドフルな11月28日

マインドフルでいるということは、自分自身とまわりのことに気づきつづけているということです。
人混みを歩いているときでも、自分とまわりの状況がクリアに把握できています。
困った人がいればすぐに気づくし、ふらふら歩いている人にこちらからぶつかるようなことはありません。
転んで怪我をすることも少なくなるでしょう。
混雑した駅構内を歩いていて、人とぶつかりそうになることが増えているように感じるのは、歩きスマホのせいばかりではないかもしれません。
マインドレスな人が増えているような気もします。

マインドフルの練習(334)
冷たい金属やプラスチックのペンを用意します。
腕まくりして、手のひらを上に向けます。
ペンを指先のほうから手のひら、手首、腕の内側のほうへと、ゆっくりと転がしてみます。
冷たさを感じ、それが移動していくようすを観察してください。

2014年11月27日木曜日

マインドフルな11月27日

電車に乗ると人々は一様にうつむき、スマホの画面に顔を埋めている光景があります。
歩きながらメールを打ったり、ゲームなどの画面を見ている人もいます。
人に文句をつけるつもりはないんですが、私自身はそのようなふるまいはよそうと決めています。
マインドフルにもなれませんし、なによりまわりに注意を向けられないからです。
思いがけない危険があってもそれを避けられないばかりではなく、なにか困った人がいてもそれに気づくことがありません。
お年寄りや身体の不自由な人、妊婦さんが電車に乗りこんできても、気づかないまま席を占領しているようなことはしたくないと思うのです。

マインドフルの練習(333)
長くおなじ姿勢をしていて身体がこわばってしまったとき、身体をのばしますが、そのとき、自分の身体がのびていくようすを観察します。
ぱっと全身をのばしてしまうのではなく、こわばりを感じている部分に注意をむけながら、まずその部分だけをゆっくりのばしてみます。
それから徐々に身体全体をのばすようにしてみましょう。

2014年11月26日水曜日

マインドフルな11月26日

私たち人間は——いや、人間に限らずすべての生きとし生けるものは——日々変化しつつある存在です。
それを、日々死に近づき、日々老化し、生命が劣化していくととらえるか、日々経験を重ね、日々成長しているととらえるか、さまざまなかんがえかたがあるでしょう。
どちらも事実です。
どちらにもいえるのは、私たちは毎日、変わりつづけているということです。
毎日、なにひとつとして、まったくおなじおこない・経験はありません。
歯をみがくことひとつとっても、昨日と今日とではちがうのです。

マインドフルの練習(332)
なにか作業をしていて(たとえばパソコンに向かっていて)長くおなじ姿勢でいると、身体をのばしたくなります。
そのとき、実際に身体をのばす前に、自分の身体がどのような感じになっているのか観察してみます。
どこかにこわばりやとどこおりを感じますか? あるいはなにも感じませんか?

2014年11月25日火曜日

マインドフルな11月25日

あなたがいま30歳だとします。
それを2 で割ると15になりますが、15歳のときの自分を思いだしてみてください。
15歳の自分と30歳の自分とでは、どのように違いますか? あるいは違いませんか?
大きく変わってしまったところ、すこし変わったところ、全然変わっていないところ、いろいろあるかもしれませんね。
いずれにしても、人はだれしも、まったく変わらないまま歳を重ねることはできないということですし、過去の自分といまの自分を比較してみることもあまり意味のないことだということです。

マインドフルの練習(331)
右手で左の人差し指をぎゅっと握ってみます。
どんな感触ですか?
つづいて、左手で右の人差し指をぎゅっと握ってみます。
どんな感じですか?

2014年11月24日月曜日

マインドフルな11月24日

なにか心配事があると、発揮できる能力がいちじるしく低下します。
仕事や生活の必要なことがとどこおったり、うわのそらになってしくじったりします。
なので、いまここの自分自身に立ちもどりマインドフルネスを心がけるわけですが、それは心配事を無理になかったことにしたり、忘れてしまうことではありません。
いまこの瞬間の自分が必要としていること、自分がいますぐできることにつながるために、マインドフルネスが有効である、ということです。

マインドフルの練習(330)
携帯電話などの電子アラーム音は、鳴ってもどこから聞こえてくるかよくわからないときがあります。
その音を使って練習をしてみます。
アラーム十秒とか二十秒とかみじかめにセットして、部屋のどこかに置きます。
そこから離れたところに移動し、ケータイに背を向けて目をとじます。
アラームが鳴ったら目を閉じたままケータイの方角を向き、できるだけ正確にどこから音が聞こえたのか指をさしてみます。
目をあけて、実際にケータイのある場所を確認します。

2014年11月23日日曜日

マインドフルな11月23日

ネットを見ていると、よく、「あなたの英語学習法は間違っている」とか「◯◯ダイエットは効果なし」といった記事を見かけます。
けっこうセンセーショナルだったり、こちらに不備があるような気分にさせられて、つい読んでしまいますし、記事が拡散されるスピードも早いようです。
しかし、こういう記事にはどこか人を脅すようなところがあって、その目的はなんだろうとかんがえると、あまり全面的に信用するのはどうかと思うこともあります。
なにかをよかれと思って人に伝えるとき、自分もついそのようなもののいいかたをしていないかどうか、気をつけたいところです。

マインドフルの練習(329)
子どものころ、パンを入れるようなビニール袋や紙袋を息でふくらませ、それを「ポン」と手で割って遊びました。
それと同じことをやってみましょう。
ただし割る必要はありません。
いっぱいにふくらませるその過程の、袋と自分の呼吸袋(肺ですね)の変化のようすを、しっかりと観察してみてください。

2014年11月22日土曜日

マインドフルな11月22日

感情が過度にあらわれているとき、私たちは本来の能力を出しきることができません。
つまり、感情に支配されることによってパフォーマンスが低下するのです。
過度な怒り、悲しみ、いらいらといった感情にとらわれているとき、私たちの行動は本来の能力をそこなったものになります。
感情から距離をおき、それを観察することで、冷静さを取りもどし、自分本来の能力を発揮できるようになります。
感情を悪者扱いする必要はありませんが、うまく距離を取る方法を身につけたいものです。

マインドフルの練習(328)
まっすぐ立って、両腕を前へならえの要領で前にのばしてみます。
そのまま、身体全体の感じを観察してみてください。
それから、のばした手の指をピンと張り、さらに先のほうへとのばしてみてください。
つぎに 腕はそのままで張った指の力だけを抜いてみてください。
身体全体の感じがどのように変化するのか、観察してみます。

2014年11月21日金曜日

マインドフルな11月21日

「私が私である」という感覚や、なにかできごとに接して感情が生まれたり、自分の意志でものごとをおこなったりするのは、私たちに「こころ」あるいは「自我」があるからだといわれています。
そのメカニズムは近年の脳科学や心理学の進歩でかなりわかってきていますが、しかしそれがわかったからといって自分自身のこころの動きをコントロールできるものではありません。
私たちは自分のこころの動きを予測することができません。
しかし、いまこの瞬間に起きているこころの動きを知ったり、観察することは、訓練によって可能になります。
そうすることによって、感情に支配されがちな自分の行動をあきらかにすることができます。

マインドフルの練習(327)
ひらがなの中から好きな文字をひとつ、選びます。
つぎに、手帳でもノートでも、コピー用紙でもチラシの裏でもなんでもかまいません、紙のうえにその文字をペンや鉛筆でできるだけ大きく書きます。
そのとき、紙いっぱいになるように、同時に自分の心持ちもできるだけ広く大きくして、のびのびと書いてみましょう。

2014年11月20日木曜日

マインドフルな11月20日

日常でのコミュニケーションで私たちはけっこうひんぱんに「反射的な受け答え」をやってしまっています。
「おはよう」とか「行ってきます」「行ってらっしゃい」とか「お疲れさん」といった常套句をほとんど無意識に使っていますが、ときに立ちどまってその言葉を発する意味、気持ち、状況に目を向けなおしてみるのもいいでしょう。
そうすると思いがけないことに気づくこともあるかもしれません。
「行ってらっしゃい」という言葉のなかに相手の無事を思いやり、自分の安心を願うこころがあることに気づくかもしれないですね、そしてそのことをつい忘れがちなことにも。

マインドフルの練習(326)
座っていても立っていてもかまいませんが、上体を起こした姿勢で片腕をまっすぐ前にのばしてみます。
肘をのばし、手首もまっすぐにして、指が自分からできるだけ遠くに向かうようにのばしてみます。
どんどんのばしてみると、思っていたより腕が長いことに気づくかもしれません。
自分の腕がいちばん長くなった状態を味わってみてください。
片腕が終わったら、反対側の腕もおなじようにしてみましょう。

2014年11月19日水曜日

マインドフルな11月19日

「頭の回転が速い」とか遅いとか、よくいいます。
「あの人の返事は打てば響くようで、頭の回転が速いんだね」というようなことをいいます。
私も割合、返事がすばやく、頭の回転が速いと人からいわれることがあります。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
今日、散髪するときにシャンプーしていて、「お湯かげんはいかがでしょうか」ときかれました。
私は即座に「だいじょうぶです」と答えたんですが、質問の「いかが」あたりでもう返事をしていました。
ただ反射的に、よくかんがえもせずに答えていたことに、あとで気づきました。
これは頭の回転が速い/遅いとは関係のない話ですね。

マインドフルの練習(325)
眼鏡でもボールペンでも、あるいはほかのなんでも、手近にある小物を手に取り、目の前にかざします。
それをじっくり見つめてください。
色や形をしっかりと目に焼きつけてください。
それからまぶたを閉じます。
ひと呼吸、ふた呼吸、ゆっくり息をかぞえてから、目をあけます。
さて、ふたたび目にする小物は、先ほどとまったくおなじように見えますか? それともちがった感じがしますか?

2014年11月18日火曜日

マインドフルな11月18日

自分の弱点、苦手意識があること、怪我、病気、なんらかのとどこおりには、それを克服するとか無視するとかねじふせるというより、「付き合う」という心持ちがいいかもしれません。
どんな人でもさまざまな側面があります。
強い面も弱い面も、得意なことも苦手なこともあります。
それはどんなに人よりひいでているように見える人にも、強く見える人にも、自分にはとてもかなわなさそうに見える人にもあります。
もちろん自分自身にもあります。
自分も他人も丁寧に見ていけるといいと思います。

マインドフルの練習(329)
手近にある本を一冊、手に 手に取ります。
途中のページを一枚えらんで、親指と人差し指ではさんでみます。
その感触を味わいます。
つぎにもう一枚足して二枚にしてはさんで、またその感触を味わいます。
さらに一枚足して三枚に、そして四枚に、五枚にと、一枚ずつ増やしていって、そのつど感触を味わってみてください。

2014年11月17日月曜日

マインドフルな11月17日

なにか苦手なことがあるとき、たとえば料理が苦手だとしましょう、あることが「苦手だ」という意識は、自分自身にたいする一種のレッテル張りとなります。
自分にたいするある種の決めつけは、それをおこなってしまうことで自分自身の能力を限定的にしてしまいます。
「苦手だ」と決めつけるのではなく、自分のなにがいったいそれをすることにたいして不安や嫌悪をおぼえたり、足がすくんでしまうのか、そこにとどまって観察してみる必要があります。
「苦手」とか「得意」というラベリングではなく、自分がそれをどのようにおこなうことができるのか、あるいはおこなうことができないのか、自分を知ることが大切です。

マインドフルの練習(328)
手近にある本を一冊、
手に取ります。
どんな本でもかまいません。
それを手に取ったら、どこでもかまわないのでパッとページを開いてみます。
たまたま開いたページの、いちばん右上にある文字を確認します。
私の場合は、いま、「な」でした。
ただそれだけのことを、なにもかんがえずに何度かやってみます。

2014年11月16日日曜日

マインドフルな11月16日

どんな人にでも弱点はあります。
弱点のない人などひとりもいません。
弱点は対人関係において露呈したり、仕事や生活のなかでのおこないで「とどこおり」となって現れてきます。
そんなふうに弱点があらわになったとき、人はそれを克服しようとして弱点を埋めるためにトレーニングしたり、弱点が現れるような関係や行為を避けたり、あるいは無視してなかったことにしようとします。
弱点が見えたとき、それをどうにかしよう、あるいは無視しようというのではなく、まずはただそこにとどまってその存在をじっくりと味わってみる必要があります。

マインドフルの練習(327)
眠くなってきたとき、横になる前にちょっと観察してみましょう。
眠いとき、身体はどんな感じになっていますか。
身体全体と部分に注意をはらい、眠気がやってきたとき、どのような変化がおとずれるのか、しばらく観察してみます。

2014年11月15日土曜日

マインドフルな11月15日

すべての人は、たとえどんなに投げやりに見えたとしても、最善を尽くして生きています。
人生や社会に失望し、自暴自棄にふるまっているように見えたとして、それはその人なりの表現の方法であって、その人にとってはそれが最善の「戦略」であるからそのようにふるまっているように見えるだけなのです。
こちらにとって都合が悪いようにふるまう人、社会的に「悪」だと規定されている行動を 取る人、こういう者たちも、なにか切実なものがあってそのような「戦略としてのふるまい」を選択しているのです。
そこに想像力を持てるかどうかが、柔軟性の問題として問われます。

マインドフルの練習(326)
お腹がへってなにか食べたくなったとき、ちょっと待ってください。
お腹がへっている状態を観察してみるいいチャンスです。
お腹がへった、という自分の身体の状態を、じっくりと注目してみたことはありますか?
どこがどのような感じになっていますか?
じっくり観察してから、ゆっくり食事に取りかかってください。

2014年11月14日金曜日

マインドフルな11月14日

自分の活動や努力にたいする「報い」を自分の外側――金銭、名声、勝利など――に求めると、たとえそれが一時的に満たされたとしても、本当の満足はありません。
本当の満足は自分の内側にしかないもので、自分が努力することによって成長できたことの喜びや、自分の活動が十全におこなえたことにたいする自分自身の祝福によってしかもたらされません。
そのとき初めて「努力は報われる」という言葉が意味を持つのです。

マインドフルの練習(325)
喉の渇きを覚えたとき、水とかほかの飲み物が飲みたくなります。
そのとき、なにか飲む前にちょっと「喉の渇き」そのものを観察してみましょう。
「喉が渇いている」あるいは「喉の渇きを覚えている」というのは、具体的にどのような状態なのでしょう。
どこがどうなっているから「渇いている」と感じるのでしょうか。
充分に観察したら、ゆっくりと飲み物を飲み、渇きがいやされていくのを観察してみます。

2014年11月13日木曜日

マインドフルな11月13日

「努力は報われる」というようなことをよく聞きます。
あるいは「努力は必ずしも報われるとはかぎらない」とか。
それはいいんですが、この場合の「報われる」とはどういう状態をさしているんでしょうか。
つまり「努力」にたいする「報い」とはなにか、ということです。
ある人にとってはお金かもしれません、名声かもしれません、勝負に勝つことかもしれません、しかし、これら外部評価的な報いは、本当に報いとして満足できるものなのでしょうか。
本当の意味で報われるとは、自分の内側の問題ではないかと思っています。

マインドフルの練習(324)
気温がさがり、乾燥ぎみになると、手がかさつき、ハンドクリームを使うことがあるでしょう。
私はこの季節、年齢のせいもあるかもしれませんが、手がかさつきがちなので、ハンドクリームはけっこう愛用してます。
それを手に塗るとき、どのように塗っていますか?
ある部分にまずクリームを置き、それを塗り広げていくのではないかと思いますが、いつもなにげなくやっているその方式を、あらためて注意しながら、丁寧にやってみてください。