◎今日のテキスト
住みふるした麻布《あざぶ》の家《いえ》の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。
鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色《ねいろ》である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃《ゆりかご》の歌のような、心持のいい柔な響である。
――永井荷風「鐘の声」より
◎私はなぜ自由にピアノを弾けるのか(二)
振り返ってみると、私がピアノを教師について習っていたのは、小学三年から六年までの四年間だけ。母親が熱心に練習に付き合ってくれて、そのこと自体はいまとなっては感謝しているが、高学年になるとピアノを習うのがいやでいやでしかたがなくなった。そこで頼みこんで、中学生になるのを機にやめた。
以来、ピアノを人について習ったことはない。が、一度もピアノをやめたことはない。いつもひとりで遊んでいた。弾きたい曲の楽譜を買ってきて、我流で弾いていた。ジャズが好きになったときはそのまねごとをやっていた。が、それもだれかに習ったことはない。
つまり、私はずっとピアノで遊んでいただけなのだ。
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