2012年11月25日日曜日

11月25日


◎今日のテキスト
 高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。
 樵夫《きこり》、猟師でさえ、時々にしか通らない細い径《みち》は、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。
 その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は、裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い、白髯《しらひげ》の人で、後方《うしろ》のは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折《はしょ》って、紺脚絆《きゃはん》だ。

 ――直木三十五『南国太平記』より

◎私はなぜ自由にピアノを弾けるのか(一)

 今日は介護予防アーティスト養成講座の3回めだ。この講座のなかで、介護予防のグループセッションで使うための「即興演奏法」を教えている。音大出身の若い人が何人か参加しているのだが、クラシック音楽の教育を受けてきた人は、楽譜がないとなかなか自由に伴奏をしたり、即興演奏をしたり、ということができない。
 演奏技術はあるので、自由に即興ができるようになるとこんなに楽しいことはないだろうと思う。
 即興演奏法を教えながら、ふとかんがえてみた。私は一度も音楽の専門的な教育を受けたことはないのだが、なぜ即興演奏や作曲を楽しんでやれるようになったのだろうか、と。そのなかに、なにかを継続的にトレーニングして上達するということについての重要なヒントが隠されていることを発見した。

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