2012年9月3日月曜日

9月3日


◎今日のテキスト

 禅智内供《ぜんちないぐ》の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋《あご》の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥《しゃみ》の昔から、内道場供奉《ないどうじょうぐぶ》の職に陞《のぼ》った今日《こんにち》まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論《もちろん》表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来《とうらい》の浄土を渇仰《かつぎょう》すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧《おそ》れていた。
 ——芥川龍之介「鼻」より

◎懐かしいという感情

見覚えのある風景や古い写真、昔好きだったモノを見つけたときなど、「懐かしい」という感情がわく。とても暖かく気持ちのいい感情だが、そればかりにひたるのは危険性もある。
「懐かしさ」は自分のなかの「変わらずにある好ましい思い出」にアクセスすることであり、それ自体は問題ないのだが、度をすぎると「逃避」になり、また「反芻思考」におちいることもある。
「いまここ」の現実から目をそむけ、好ましい思い出にひたりきることで逃避する。繰り返し繰り返し、好ましい思い出を反芻する。そのことによってマインドフルから遠ざかり、不確定性に満ちた現実世界に立ちむかう力を失ってしまうことになる。
思い出や懐かしさにひたりきることについての自覚と客観性を持ちたい。

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