2012年7月23日月曜日

7月23日

◎今日のテキスト

 冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残っており、村端《むらはずれ》の溝に芹《せり》の葉一片《ひとつ》青《あお》んではいないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消《ゆきげ》の路の泥濘《ぬかるみ》の処々乾きかかった上を、春めいた風が薄ら温かく吹いていた。それは明治四十年四月一日のことであった。
 新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健《ちはやたけし》は、平生より少し早目に出勤した。白墨《チョオク》の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリクリした三分刈の頭に帽子も冠らず――渠《かれ》は帽子も有《も》つていなかった。――亭乎《すらり》とした体を真直《まっすぐ》にして玄関から上って行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方《かなたこなた》から駆けて来て、敬《うやうや》しく渠を迎へる。
 ——石川啄木「足跡」より

◎自分のなかの子供性

 子供のころは自由奔放にふるまっていてもある程度許されたことが(突然走り回る/歌いだす/大騒ぎする)、大人になるにつれ「それはいけません」と抑制され、またみずからも抑制することを覚えていく。
 しかし、内的欲求としては、大人になってからも常に子供のようなふるまい(自由表現)を持ちつづけていることはまちがいない。それを強制的に抑えつづけていたり、制御できないままでいると、心の病を引き起こす。
 表現欲求は、表現によって解消できる。だから、表現セラピーは有効なのだ。音読療法も表現セラピーの側面を持っており、自分なかの子供性をないがしろにしないことに有効だ。

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