2012年7月13日金曜日

7月13日

◎今日のテキスト

 無学ではあり貧しくはあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ、何を信ずるかをさへ、充分に言ひ現せない。併しその素朴な言葉の中に、驚くべき彼の体験が閃いてゐる。手には之とて持物はない。だが信仰の真髄だけは握り得てゐるのだ。彼が捕へずとも神が彼に握らせてゐる。それ故彼には動かない力がある。
 私は同じやうなことを、今眺めてゐる一枚の皿に就いても云ふことが出来る。それは貧しい「下手《げて》」と蔑まれる品物に過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も唱へるやうに、彼は何度も何度も同じ轆轤の上で同じ形を廻してゐるのだ。さうして同じ模様を描き、同じ釉《くすり》掛けを繰返してゐる。
 ——柳宗悦「雑器の美」より

◎全身で感じる

 たとえば耳が聴こえない人がいたとき、音楽や朗読を楽しんでもらえない、と思いこんでしまう。
 そんなことはない。彼は耳は聴こえないけれど、ほかの感覚はすばらしく生きている。むしろ耳が聴こえる者よりずっと、いろいろなことを受け取っている。
 逆に耳が聴こえる人は、音楽を聴くとき、音しか受け取っていないことが多い。音楽のなかには音以外のたくさんのことがこめられているのに。
 音楽にせよ、表現にせよ、あるいはただだれかと会って話をしたり、その場にたたずんだりしているにせよ、ときに自分の全体を使って受け取ってみたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿