◎今日のテキスト
羅馬《ロオマ》に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做《な》したる、美しき噴井《ふんせい》ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの廣こうぢのさまをば銅板畫にて見つることあらむ。かゝる畫にはヰア、フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三條の樋《ひ》の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常《よのつね》ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。
——ハンス・クリスチアン・アンデルセン『即興詩人』(訳・森鴎外)より
◎沈黙の質
人が会話しているとき、あるいは朗読しているとき、音楽を演奏しているとき、ときに音や言葉のない瞬間がおとずれることがある。ときにそれは気まずかったり、なにか言わなければとあせったり、緊張に満ちていたり、あるいは安らかであったりと、ひとことで沈黙といってもさまざまな質がある。
私はここ数年、「沈黙の朗読」という試みをつづけている。朗読は「言葉」のほうに注意が向けられることが多いが、そうではなく言葉と言葉のあいだにある沈黙のほうに着目し、その質を追求しようという試みだ。
大変おもしろい成果が得られつつある。
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