2012年3月16日金曜日

3月16日

◎今日のテキスト

 多摩川の二子《ふたこ》の渡しをわたって少しばかり行くと溝口《みぞのくち》という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿《はたごや》がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根《わらやね》の南の軒先からは雨滴《あまだれ》が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋《わらじ》の足痕にたまった泥水にすら寒そうな漣《さざなみ》が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めてしまった。闇《くら》い一筋町《ひとすじまち》がひっそりとしてしまった。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火《あかり》が明《あか
》く射していたが、今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸《がんくび》の太そうな煙管《きせる》で火鉢の縁をたたく音がするばかりである。
 ——国木田独歩「忘れえぬ人々」より

◎足の裏を意識する

 ヒトは大脳が発達したあまりに、いろいろなものごとを頭のなかだけで処理しようとする癖が身についてしまっていることが多い。それがさまざまな弊害をもたらす。
たとえば朗読表現をやっていると、眼で活字を読み、その意味を大脳で処理し、口先で発音しようとする。使っているというか意識しているのは、身体の喉から上のほんの一部である。
 すぐに気付いてもらえると思うが、文章を読みあげるとき、私たちは身体を使っている。呼吸や姿勢のことを意識していない朗読は、朗読者そのものが伝わりにくい。
そんなとき、足の裏を意識すると自分の身体のことを思いだしやすい。足の裏と頭のてっぺんの間に自分の身体が存在し、その全体を使って読んでいる、という意識が朗読を生きた表現にする。

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