2012年3月31日土曜日

3月31日

◎今日のテキスト

 どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 ——宮沢賢治『風の又三郎』より

◎集中のふたつのレベル

 なにかものごとをするとき、集中するということがある。この集中にも、ふたつの状態がある。
 ひとつめは集中するあまり、まわりの物音が聞こえなくなったり、時間の経過もわからなくなったり、自分の名前を呼ばれても気づかない、という状態だ。これはだれしも経験したことがあるだろう。
 もうひとつの集中の状態は、自分がやっていることに完全に集中しているのに、まわりで起こっていることが完全に見えたり聞こえたりしている、というもの。
 前者は外部からの情報が遮断されている状態。後者は外部からの情報が流れこんでいながらも、集中力が持続している状態。この状態を「フロー」と呼んだりする。フローは特別な人だけができることではなく、だれもが訓練でできるようになる。

2012年3月30日金曜日

3月30日

◎今日のテキスト

 四月×目
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ! と怒鳴ったところで、私は一匹の烏猫、世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃる。
 ——林芙美子『放浪記』より

◎指の形で声が変わる?

 古来からの武術家の知恵だが、いつもより大きな力を出したいとか、いつもよりすばやく動きたい、というときに、指を特殊な形に組んだり、ある形にギュッと力を入れることがある。
 たとえば、密教の行者が「印」を結ぶ、というような行為も、身体の一部をある形にすることで、身体全体の動きを変えるというようなことだろうと思う。
 西洋医学的な身体の認識になれてしまっている現代人にはちょっと不思議な方法かもしれないが、東洋医学や東洋思想では古来から、一部は全体に影響を与えるということが伝えられている。足の裏のツボの地図が身体全体に対応しているのは「反射区」といわれて、これは現代でもかなり有用性が認められている。
 音読するときにも、指とか足とか、身体のどこか一部にちょっと力をいれてみたり、姿勢を変えてみることで、自分の声や呼吸がどのように変化するのか、観察してみるとおもしろい。

2012年3月29日木曜日

3月29日

◎今日のテキスト

 ますぐなるもの地面に生え、
 するどき青きもの地面に生え、
 凍れる冬をつらぬきて、
 そのみどり葉光る朝の空路に、
 なみだたれ、
 なみだをたれ、
 いまはや懺悔をはれる肩の上より、
 けぶれる竹の根はひろごり、
 するどき青きもの地面に生え。
 ——萩原朔太郎「竹」

◎「いまここ」を生きるのは将来設計がないこととは違う

 マインドフルに「いまここ」に集中するのは、将来のことをなにも考えないことではないし、過去に学ばないことでもない。
「いまここ」にいる自分がなにを感じ、なにを大切にしているかということにつねに意識を向けることで、いまこの瞬間自分がなにをしたいのか、どのようにありたいのかを決定する根拠ともなる。それがわかれば、計画は自然に生まれてくる。また、過去に学んで次はどうすればよいのかも自然にわかってくる。
 恣意的にあれやこれや都合やらなにかの枠組みのなかで計算的に計画や人生設計を作るのではない、ということだ。

2012年3月28日水曜日

3月28日

◎今日のテキスト

山路《やまみち》を登りながら、こう考えた。
智《ち》に働けば角《かど》が立つ。情《じょう》に棹《さお》させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高《こう》じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟《さと》った時、詩が生れて、画《え》が出来る。
——夏目漱石『草枕』より

◎イフ(if)の罠

人はよく「あのときこうしておけばいまごろこんなことにはなっていなかったのに」とか、「あのときああしなければこんなことにはなっていなかったのに」という後悔にさいなまれることがある。
これは一種の思考パターンである。
「ああしておけば」も「ああしなければ」も、いずれの選択肢を取っていたにせよ、現在は後悔に満ちているだろう。つまりは「過去の選択肢を思い悩んで現在を後悔する」という思考パターンに陥っているにすぎない。すべては「いまここ」の選択肢に意識を向けることにある。

2012年3月27日火曜日

3月27日

◎今日のテキスト

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜《あかぬ》けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 ——太宰治『人間失格』より

◎音読日めくりを持ち歩く

 気分が落ちこんだとき、もやもやしているときには、まずは呼吸。そしてマインドフルネスを心がけ、反芻思考を断ち切ることが有効であることはすでに書いた。
 呼吸法をおこなってもなかなか雑念が追い払えないという人は、気にいった文章を読むといい。できれば声に出して。
 私の知り合いの何人かは、この「音読日めくり」をプリントアウトして持ち歩いている。いつでも読めるように。気にいった文章だけ持ち歩けばいいし、手帳などに書き写しておいてもいい。頭のなかにいれておいて、いつでも暗唱できるようにしておくのもいい。

2012年3月26日月曜日

3月26日

◎今日のテキスト

 春の小川は さらさら流る。
 岸のすみれや れんげの花に、
 においめでたく 色うつくしく
 咲けよ咲けよと ささやく如く。

 春の小川は さらさら流る。
 蝦《えび》やめだかや 小鮒《こぶな》の群れに、
 今日も一日 ひなたに出でて
 遊べ遊べと ささやく如く。

 春の小川は さらさら流る。
 歌の上手よ いとしき子ども、
 声をそろえて 小川の歌を
 うたえうたと ささやく如く。

——高野辰之「春の小川」オリジナルバージョン

◎「春の小川」のオリジナル版

「音読日めくり」を読んでくれている方から貴重な情報をいただいた。
 3月23日分として掲載した高野辰之の「春の小川」は、文部省唱歌として採用されたときのもので、オリジナルにかなりの改訂が加えられたバージョンだということである。そしてオリジナルバージョンを教えてもらった。
 今日はそのオリジナルバージョンを掲載させていただく。文部省唱歌版とはかなりおもむきが違った感じがする。それを味わってみてほしい。
 情報をお寄せいただいたことに感謝します。

2012年3月25日日曜日

3月25日

◎今日のテキスト

「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
——宮沢賢治「マグノリアの木」より

◎自分という意識を開く

「自分」や「自我」の概念が強くなればなるほど、人は生き方や自分の存在の意味に苦しむ。
 マインドフルネスの実践では、まずは自分の存在=身体に意識を向けることから始めて、しだいに外側へと感覚を開いていく。
 宮沢賢治のこの文章には、この時代にあってすぐれた「自己認知」の原理が書かれている。「あなた」という他者は自分の意識に投影されている存在であり、自分自身と区別せねばならないものではない、といっているのだ。それは逆に、自分自身も他者に投影された存在であり、自分は他者のなかで生きているともいえる。
 そのような認知で行なう生活や表現はどのようなものになるだろうか。

2012年3月24日土曜日

3月24日

◎今日のテキスト

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしわすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいささかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてて例のことども皆しおへて、解由など取りて住むたちより出でて船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつつののしるうちに夜更けぬ。
 ——紀貫之「土佐日記」より

◎古典を読む

 学校教育のせいで、多くの人が古典作品に対して「むずかしい」「面倒だ」「意味がわからない」といった評価を自分のなかに作ってしまっていて、あらためて読んでみようという気が起こらなくなっている。
 一度その評価を捨てて、なんらかの解釈や判断をすることなく、ただ純粋に音読してみることをおすすめする。そのとき、どのような音が自分の口から出てくるのか。どのようなイメージが湧いてくるのか。
 最初はもちろん読みにくいかもしれないが、何度も繰り返し読んでいくうちに、きっと思いがけない発見があるはずだ。なにも考えずに、ただ声に出して読んでみる。

2012年3月23日金曜日

3月23日

◎今日のテキスト

 春の小川は さらさら行くよ
 岸のすみれや れんげの花に
 すがたやさしく 色うつくしく
 咲けよ咲けよと ささやきながら

 春の小川は さらさら行くよ
 えびやめだかや 小ぶなのむれに
 今日も一日 ひなたでおよぎ
 遊べ遊べと ささやきながら

 ——高野辰之「春の小川」

◎評価を気にせず歌う

 声を出してなにかを読んだり、歌をうたったりするのは、気持ちがいいものだ。しかし、ひと前でそれをやろうとすると、臆した気分になってしまう人がほとんどだろう。なぜなら、人は他人の評価を気にするように育ってしまうからだ。
 下手だと思われないだろうか、笑われないだろうか、上手に思われたい、といった評価を気にして、本来持っていたはずののびのびした表現ができなくなってしまう。
 ときには子どものころのだれの眼も気にしないのびのびした気分になって、自由に読んだり歌ったりしてみてはどうだろうか。

2012年3月22日木曜日

3月22日

◎今日のテキスト

 冬の蠅《はえ》とは何か?
 よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼らはいったいどこで夏頃の不逞《ふてい》さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝《くろず》んで、翅体《したい》は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は紙撚《こより》のように痩せ細っている。そんな彼らがわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍《は》っているのである。
 ——梶井基次郎「冬の蠅」より

◎言葉の音

 言葉はものごとをしめす「意味記号」であると同時に、音声でもある。
「冬の蠅」という言葉は、冬という季節に生息している蠅という生物を指し示す意味記号である。と同時に「ふゆのはえ」という音声であり、人の声という音そのものでもある。
 現代人は言葉を聞いたとき、その意味ばかりを追求するように訓練されてきたが、その言葉の音が持つ感触や手触りを味わうこともできる。むしろそちらのほうが豊かな情報を含んでいる。その言葉がどのような感触を持って発せられているのか、どんな手触りがあるのか、どんな感情がこめられているのか。
 だれかの声を聞くとき、あるいは自分が声を発するとき、さらには黙読で声を発せず頭のなかで響かせるとき、「言葉の音」を味わってみることができる。

2012年3月21日水曜日

3月21日

◎今日のテキスト

 名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦《おのの》くのを見ても、また微風に吹かれて、羞《はじ》らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。
 ——小川未明「名もなき草」より

◎黙読、音読、静読

 文章を読む方法にはいくつかある。
 黙って活字を読む方法。その場合には、文字情報を音声変換せずに一瞬にして意味だけとらえていく一種の「速読」があるが、ここではそれはおすすめしない。黙読するにせよ、頭のなかで音声に変換して、「言葉の音」として味わうことをおすすめする。
 もちろん、できれば声に出して読めるといい。音読してもいい環境があれば、許される音量で声に出して読みあげる。これははっきりと身体運動である。身体運動と読書が結びついたとき、そこにマインドフルネスが生まれる。
 声を出して読むことが難しい環境——たとえば満員電車のなか——などでは、口のなかでぼそぼそ読むということもできる。無声のまま呼吸で読む。まわりには聴こえないが、自分の聴覚には骨伝導で聴こえる。
 とにかく、文字面をなぞる「意味読書」と、なんらかの音声変換による「音読」とでは、体験の質がまったく異なる。

2012年3月20日火曜日

3月20日

◎今日のテキスト

 草に臥《ね》て
 おもうことなし
 わが額《ぬか》に糞《ふん》して鳥は空に遊べり
 ——石川啄木『一握の砂』より

◎もやもやしたときはすかさず

 自分でもわからないうちになにか「いまここにあらず」が原因で、不安やイライラ、悲しみ、怒りといった感情に支配されて、もやもやした気分に陥ってしまうことがある。それはつまり「マインドレス」の状態だ。
 そんなとき、それを断ち切る「マインドフル」になるために、まずは呼吸に意識を向ける。そして、雑念を追い払うための音読。
 音読のためのテキストはいつも手元に用意しておくといい。ケータイやスマートフォンなど、いつでも呼びだせるようにしておくといい。しかし、それができないときのために、自分の気にいった文章をいくつか暗記しておくことをおすすめする。詩や、小説のワンフレーズを覚えておけば、いつでもそれを声に出してとなえたり、あるいは声に出さなくても頭のなかで読みあげて、雑念を追い払うことができる。

2012年3月19日月曜日

3月19日

◎今日のテキスト

 青い眼をした
 お人形は
 アメリカ生れの
 セルロイド

 日本の港へ
 ついたとき
 一杯涙を
 うかべてた

「わたしは言葉が
 わからない
 迷ひ子になったら
 なんとしょう」

 やさしい日本の
 嬢ちゃんよ
 仲よく遊んで
 やっとくれ

 ——野口雨情「青い眼の人形」より

◎音読を雑念に代入する

 瞑想や呼吸法では「雑念を追いはらってください」とよくいわれる。そういわれても次々とわいて出る雑念にとらわれて、思うように無我の境地にはなれないのが普通の人だ。
「ピンクの白熊を考えないように」といわれても、反射的にピンクの白熊を考えてしまう。そんな時、ピンクの白熊を考えないためには、別のこと、別のイメージを頭に「代入」してやればいい。
 雑念を追いはらうために、だれかが書いた文章を読み、そのイメージを雑念に満たされがちの頭に代入する。

2012年3月18日日曜日

3月18日

◎今日のテキスト

 二月のある日、野中のさびしい道を、十二、三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四、五の男の人とが、同じ方へ歩いていった。
 風がすこしもないあたたかい日で、もう霜《しも》がとけて道はぬれていた。
 かれ草にかげをおとして遊んでいるからすが、ふたりのすがたにおどろいて、土手をむこうにこえるとき、黒い背中が、きらりと日の光を反射するのであった。
「坊、ひとりでどこへいくんだ」
 男の人が少年に話しかけた。
 少年はポケットにつっこんでいた手を、そのまま二、三ど、前後にゆすり、人なつこいえみをうかべた。
「町だよ」
 これはへんにはずかしがったり、いやに人をおそれたりしない、すなおな子どもだなと、男の人は思ったようだった。
 ——新美南吉「うた時計」より

◎ストレッチ呼吸で深層筋を強化する

 呼吸に関わる筋肉で、とくに身体の深層にある筋肉は、意識的に強化することはなかなか難しいが、ストレッチ呼吸で強化することができる。
 この「音読日めくり」の2月17日分から始まっている一連の呼吸法がそれだ。この呼吸法によって、横隔膜、外肋間筋、内肋間筋、外腹斜筋、内腹斜筋、腹横筋、骨盤底筋群といった筋肉群を強化することができる。
 呼吸筋を強化することで若さをたもつ、体調を整える、疲れにくい身体になる、さまざまな病気を予防できるなど、生活面で多くのメリットがあるので、ストレッチ呼吸は習慣として毎日やるようにするといい。

2012年3月17日土曜日

3月17日

◎今日のテキスト

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐《すわ》っていると、仰向《あおむき》に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔《うりざねがお》をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然《はっきり》云った。自分も確《たしか》にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗《のぞ》き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤《うるおい》のある眼で、長い睫《まつげ》に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸《ひとみ》の奥に、自分の姿が鮮《あざやか》に浮かんでいる。
 ——夏目漱石『夢十夜』より

◎深層筋を意識する

 筋肉は身体の表面にあって強くすばやい動きを作るための表層筋と、身体の内側にあって姿勢や呼吸を維持するための深層筋がある。
 筋肉を鍛えるというと、表層筋を意識することが多く、負荷をかけて筋肉を収縮させることで筋繊維を太くする運動をする。しかし、深層筋はそのような運動では鍛えにくい。筋肉の性質が異なっているからだ。
 深層筋は収縮させるのではなく、むしろ伸張させた状態で力を加えることで、鍛えることができる。つまりストレッチである。
 さまざまなストレッチは深層筋を整えることに大変有効だ。

2012年3月16日金曜日

3月16日

◎今日のテキスト

 多摩川の二子《ふたこ》の渡しをわたって少しばかり行くと溝口《みぞのくち》という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿《はたごや》がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根《わらやね》の南の軒先からは雨滴《あまだれ》が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋《わらじ》の足痕にたまった泥水にすら寒そうな漣《さざなみ》が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めてしまった。闇《くら》い一筋町《ひとすじまち》がひっそりとしてしまった。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火《あかり》が明《あか
》く射していたが、今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸《がんくび》の太そうな煙管《きせる》で火鉢の縁をたたく音がするばかりである。
 ——国木田独歩「忘れえぬ人々」より

◎足の裏を意識する

 ヒトは大脳が発達したあまりに、いろいろなものごとを頭のなかだけで処理しようとする癖が身についてしまっていることが多い。それがさまざまな弊害をもたらす。
たとえば朗読表現をやっていると、眼で活字を読み、その意味を大脳で処理し、口先で発音しようとする。使っているというか意識しているのは、身体の喉から上のほんの一部である。
 すぐに気付いてもらえると思うが、文章を読みあげるとき、私たちは身体を使っている。呼吸や姿勢のことを意識していない朗読は、朗読者そのものが伝わりにくい。
そんなとき、足の裏を意識すると自分の身体のことを思いだしやすい。足の裏と頭のてっぺんの間に自分の身体が存在し、その全体を使って読んでいる、という意識が朗読を生きた表現にする。

2012年3月15日木曜日

3月15日

◎今日のテキスト

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。

 からたちのとげはいたいよ。
 青い青い針のとげだよ。

 からたちも秋はみのるよ。
 まろいまろい金のたまだよ。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかったよ。

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。

 ——北原白秋「からたちの花」

◎呼吸数の変化について

 まずなにもやらない普段の安静時に、時々呼吸数を計って自分の数字を把握しておく。
 次に、ホールブレスやボトムブレス、ストレッチ呼吸をおこなった後にその呼吸数が変化するかどうかを観察する。
 生理的な原理にしたがえば、呼吸法がうまくできた場合、呼吸数はいくらか減少するだろう。呼吸法をおこなった後で呼吸数が増えるとしたら、やり方を変えてみたほうがいいかもしれない。しかし、減らなければならないと執着する必要はない。変化があるにせよないにせよ、それに意識を向け観察することそのことを大切にする。

2012年3月14日水曜日

3月14日

◎今日のテキスト

晴れ上がって急に暑くなった。 朝から手紙を一通書いたばかりで何をする元気もない。 なんべんも机の前へすわって見るが、じきに苦しくなってついねそべってしまう。 時々涼しい風が来て軒のガラスの風鈴が鳴る。 床の前には幌蚊帳《ほろがや》の中に俊坊が顔をまっかにして枕をはずしてうつむきに寝ている。 縁側へ出て見ると庭はもう半分陰になって、陰と日向《ひなた》の境を蟻がうろうろして出入りしている。 このあいだ上田の家からもらって来たダーリアはどうしたものか少し芽を出しかけたままで大きくならぬ。 戸袋の前に大きな広葉を伸ばした芭蕉《ばしょう》の中の一株にはことし花が咲いた。 大きな厚い花弁が三つ四つ開いたばかりで、とうとう開ききらずに朽ちてしまうのか、もう少ししなびかかったようである。
——寺田寅彦『花物語』より「芭蕉の花」冒頭

◎呼吸を数えてみる

呼吸を観察する、といっても最初は漠然としてつかみどころがないように感じる人もいるかもしれない。またそうでない人にもやってみることをおすすめしたいのは、自分の呼吸を数えてみる、というプラクティスだ。
吐いて、吸って、この一往復で「一」とカウントする。
時計を見るかタイマーをかけるかして、三分間数えてみる。その数を三で割ったものが、一分あたりの自分の呼吸数だ。
だいたい15回前後の人が多いようだが、それよりずっと少なくても、あるいはずっと多くても、異常だということはない。人それぞれ呼吸数はまちまちで、さまざまな数字が出てくる。その数字自体を気にすることはない。
とにかく、自分の平常時の呼吸数がどのくらいなのか、何度か計ってみよう。

2012年3月13日火曜日

3月13日

◎今日のテキスト

 儂《わし》の村住居《むらずまい》も、満六年になった。暦《こよみ》の齢《とし》は四十五、鏡を見ると頭髪《かみ》や満面の熊毛に白いのがふえたには今更《いまさら》の様に驚く。
 元来田舎者のぼんやり者だが、近来ますます杢兵衛《もくべえ》太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫《くるまや》が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後《あと》でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否《いや》極《ごく》上等のをと気前を見せて言い値でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。
 ——徳富蘆花『みみずのたわごと』より

◎副交感神経を優位にさせる呼吸

 意識的に副交感神経を優位にする(そのための呼吸法をする)ことで、さまざまな症状が改善されることが知られている。
 便秘や消化不良などの消化器系の症状をはじめ、めまい、冷や汗、脈拍が速くなったり血圧が上昇したりする過緊張、立ちくらみ、耳鳴り、吐き気、頭痛、過呼吸、生理不順などの身体的不具合から、欝、不眠、不安神経症、適応障害といった精神的不具合までの要因となることがある。
 すべてを改善するとはいえないが、呼吸法による自律神経の調整によってさまざまな症状が改善することを試してみる価値はあるだろう。

2012年3月12日月曜日

3月12日

◎今日のテキスト

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資《と》り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。
——福沢諭吉「学問のすすめ」より

◎副交感神経を優位にさせる呼吸

副交感神経が優位になると、深くゆったりとした呼吸が現れる。そのとき使われている呼吸のために、胸から上の筋肉ではなく、横隔膜より下の筋肉が使われている。横隔膜より上の筋肉も、外肋間筋と内肋間筋がゆるやかに胸郭の膨張と収縮のために動いてはいるが、深くゆったりした呼吸では横隔膜を筆頭に、下腹部の深層筋がゆるやかに動いている。
これを逆に利用して、下腹部の深層筋を意識してゆっくりと深い呼吸を作ることで、副交感神経を活性化することができる。
前に書いた「ボトムブレッシング」がそれにあたるが、実際にやってみるとわかるように、眠くなる、お腹がグーグーいう、などの身体的現象が明らかになる人が多い。これは副交感神経が優位になった証拠である。便秘の症状が改善した、という報告を何人かから受けている。

2012年3月11日日曜日

3月11日

◎今日のテキスト

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはば朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』
 ——鴨長明「方丈記」より

◎自律神経と呼吸

 自律神経のうち交感神経が優位になると、脈拍が上昇する、体温が上昇して発汗する、血管や筋肉が収縮する、呼吸が早く浅くなるなど、身体が活動的な状態になる。逆に、副交感神経が優位になると、脈拍が下降する、体温が下がる、血管が拡張し筋肉が弛緩する、呼吸が深くゆっくりになる、そして消化器系の動きが活発になる、など、休息や眠りの状態になる。
 このことを利用する。呼吸をゆっくり深くすることで副交感神経を優位にできる。
 忙しく生活や仕事に追われストレスにさらされている現代人のほとんどは、交感神経が高揚している状態が多いので、意識的に副交感神経を優位にさせる必要がある。

2012年3月10日土曜日

3月10日

◎今日のテキスト

 海浜の松が凩《こがらし》に鳴り始めた。庭の片隅で一叢《ひとむら》の小さなダリヤが縮んでいった。
 彼は妻の寝ている寝台の傍《そば》から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺《なが》めていた。亀が泳ぐと、水面から輝《て》り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗《きれい》に光るのよ」と妻は云った。
「お前は松の木を見ていたんだな」
「ええ」
「俺は亀を見てたんだ」
 二人はまたそのまま黙り出そうとした。
 ——横光利一「春は馬車に乗って」より

◎自律神経

 ヒトの神経系はおおきく分けて、随意神経系の運動神経と感覚神経、そして不随意神経系である自律神経がある。
 自律神経はその名称に反して自分でコントロールしにくい神経系だ。これが不調をきたすと、さまざまな障害となって生活面で支障をきたすようになる。
 不眠、生理不順、下痢や便秘などの消化系の不調、免疫力の低下、その他不安神経症や欝の原因になることもある。
 自律神経は交感神経と副交感神経のペア(対)でできている。互いに補完しあう関係にあって、交換神経が優位にあるときは副交感神経は下位にある。その逆もある。交換神経は人が活発に活動するときに優位になる。逆に副交感神経は人が休息するときに優位になる。
 不随意神経ではあるが、これにアクセスする有効な方法のひとつが呼吸法である。

2012年3月9日金曜日

3月9日

◎今日のテキスト

 宗助《そうすけ》は先刻《さっき》から縁側へ座布団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐《あぐら》をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和《あきびより》と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕《ひじまくら》をして軒から上を見上げると、奇麗《きれい》な空が一面に蒼《あお》く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較《くら》べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩《ゆっ》くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩《まぼ》しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫《しごと》をしている。
 ——夏目漱石『門』より

◎共感覚

 人の感覚はたとえば「五感」というように分類される。
 視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚で五感といわれているが、これは人の感覚神経にインプットされる「情報」として処理されている。コンピューターの内部で音も映像も、おなじデジタル情報として扱われているようなことが、人の脳内でもおこっている。
 音楽を聴いて映像が浮かんだり、絵を観て音が聴こえるような気がしたり、匂いで記憶が一瞬に戻ったりと、人はだれでも感覚の共鳴「共感覚」を持っている。「自分は共感覚がない」と思いこんでしまうとそれを体験することはできない。いつも感受性をフレッシュに持ち、身体のなかで起こっていることに耳をすます時間を持つこと。マインドフルネスを心がけること。これが豊かな感覚をもたらし、人生の時間をイキイキしたものにする。

2012年3月8日木曜日

3月8日

◎今日のテキスト

 春よ来い 早く来い
 あるきはじめた みいちゃんが
 赤いはなおの じょじょはいて
 おんもへ出たいと 待っている

 春よ来い 早く来い
 おうちの前の 桃の木の
 つぼみもみんな ふくらんで
 はよ咲きたいと 待っている

 ——相馬御風「春よ来い」

◎暗唱のススメ

 音読日めくりのために選んでいるテキストは、基本的に「声に出して読む」ことを前提として、おもしろい、楽しい、難しい、など、いくつかの基準がある。
 短い文章ばかりなので、気に入ったものがあればぜひとも覚えてしまわれることを推奨したい。
 頭のなかに文章を入れてしまえば、いつでも取りだして音読することができる。脳のことは詳しくないが、おそらく脳の活性化だのボケ防止だのに役立つことは違いないと思われる。
 そんな現世利益のためでなくても、よい文章を声に出して読みあげるのは、とても気持ちのいいことだ。少なくとも私はそう思う。
 今日のテキストは有名な童謡の歌詞だが、二番まで正確に覚えている人は案外少ないかもしれない。

2012年3月7日水曜日

3月7日

◎今日のテキスト

 平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人《しろうと》の素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。
 ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。
 人々は真昼の百貨店でよく彼女を見かける。
 目立たない洋髪に結び、市楽《いちらく》の着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂鬱な顔をして店内を歩き廻る。恰幅《かっぷく》のよい長身に両手をだらりと垂らし、投出して行くような足取りで、一つところを何度も廻り返す。そうかと思うと、紙凧《かみだこ》の糸のようにすっとのして行って、思いがけないような遠い売場に佇《たたず》む。彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。
 ——岡本かの子「老妓抄」より

◎マインドフルを探す

 電車の中などの人が多い場所は、マインドフルの練習をするにはうってつけだ。
 まず自分の呼吸を整え、観察する。呼吸と自分の身体に意識が向けられたら、次にまわりを見回してみる。まわりに意識を向け、自分の存在がそのなかにあり、呼吸をして動いていることを感じる。
 それができたら、今度は、自分とおなじようにマインドフルの状態にある人がいるかどうかを探してみる。ほとんどの人がなにか思いにふけっていたり、ケータイをいじっていたり、眠っていたり、つまり「いまここ」に自分がいることの意識を持っていない人が多いだろう。友人との会話や電話に夢中になっている人も、自分の「いまここ」に気づいている人は少ない。
 マインドフルな状態にある人がいると、すぐにそれとわかるはずだ。なぜわかるのかはうまく説明できない。

2012年3月6日火曜日

3月6日

◎今日のテキスト

 後《のち》の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣《わけ》とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余《よ》も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧《むし》ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪《むさぼ》って居る事が多い。そんな訣から一寸《ちょっと》物に書いて置こうかという気になったのである。
 ——伊藤左千夫『野菊の墓』より

◎行動の癖に気づいて観察する

 歯を磨くときの「癖」や「パターン」を観察してみる。
 毎日やっていることなので、ほとんど無意識でできるし、やっているだろう。歯ブラシに歯磨きを乗せ、口のなかに突っこむ。どの歯から磨いているだろうか。前歯なのか、奥歯なのか。
 癖になってしまっていることを意識的に観察してみる。いま磨いている歯はどの歯なのか。前歯を磨いた次はどの歯を磨くのか。
 ときには意識的にそのパターンを変えてみる。前歯の次は左上の奥歯を磨いていたのを、いつもとは逆に右の奥歯に行ってみる。そのとき、どんな感じを受けるだろうか。
 この「観察」ができているとき、「いまここ」の意識が生まれているといっていい。

2012年3月5日月曜日

3月5日

◎今日のテキスト

 今日はじめて春のあたたかさ覚えぬ、
 風なく日光いつもよりほがらなり、
 ——北村透谷「春は来ぬ」

◎自分の癖を観察し気づく

 人は生れ落ちて以来、身体運動も思考もさまざまな癖を身につけながら成長していく。
 スムースに動いたり、効率よく作業したり、すばやくものを考えたり、というのは、あるパターンを磨いていくことだといってもいい。たとえば楽器演奏を習得するときは一定のパターンを繰り返し練習することで上手になっていく。
 そのことは逆にパターンを身につけてしまい、そこから逃れるのが難しくなることを意味する。自由に動いたり考えたりするためには、自分が身につけてしまっているパターンを自覚し、いつでもそれをやめることができるようにしておくことが重要だ。
 たとえば毎日歯を磨いていると思うが、どのようなパターンで磨いているだろうか。

2012年3月4日日曜日

3月4日

◎今日のテキスト

 木曾路《きそじ》はすべて山の中である。あるところは岨《そば》づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠《じっきょくとうげ》まで、木曾十一宿《しゅく》はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷《けいこく》の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間《やまあい》に埋《うず》もれた。名高い桟《かけはし》も、蔦《つた》のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降《くだ》って来た。道の狭いところには、木を伐《き》って並べ、藤《ふじ》づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨《けんそ》な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留《とうりゅう》して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 ——島崎藤村『夜明け前』より

◎マインドフルネスについて「呼吸からはじめる(3)」

 呼吸を微細に観察することで雑念を追い払い「いまここ」の意識を強めることができるが、さらに呼吸から身体全体へと「気づき」を広げていくことができる。
 呼吸している自分の身体の体重が乗っている両足の裏に意識を向け、地面あるいは床に押しつけられていることにも注意を向ける。呼吸している自分の身体が足の裏と頭のてっぺんの間に存在していることを感じる。さらにその足の裏が接している平面の広がりを感じたり、身体全体を包みこんでいる周辺の環境やより大きな空間にも意識を広げていくようにする。
 呼吸が世界とつながっている感覚を持てることもある。

2012年3月3日土曜日

3月3日

◎今日のテキスト

 半年のうちに世相は変った。醜《しこ》の御楯《みたて》といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋《やみや》となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌《いはい》にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
 ——坂口安吾「堕落論」より

◎マインドフルネスについて「呼吸からはじめる(2)」

 鼻腔を出入りする呼吸を微細に観察するには、まず鼻孔に神経を集中する。鼻孔の感覚はかなり繊細なもので、息を吐くときの暖かい空気が出ていく感覚、息を吸うときの(体温より)冷たい空気がはいってくる感覚を、注意深くとらえられるようにする。
 それができれば、その意識を鼻腔とその奥へ、気道へ、そして肺の動きへと広げていくことができるだろう。
 肺がゆったりと動き、呼吸が生まれている。その肺を膨張させたり収縮させたりしている筋肉や骨格の動きも自覚できるようになれば、マインドフル呼吸になる。そのとき自分がなにをかんがえているか思い出してみよう。おそらく呼吸と自分の身体に意識が向いてほかのことはなにもかんがえていないはずだ。いわゆる「雑念」から遠ざかった状態が起こる。

2012年3月2日金曜日

3月2日

◎今日のテキスト

 四里の道は長かった。その間に青縞《あおじま》の市《いち》のたつ羽生《はにゅう》の町があった。田圃《たんぼ》にはげんげが咲き、豪家《ごうか》の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出《けだ》しを出した田舎の姐《ねえ》さんがおりおり通った。
 羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋《みつもん》の羽織に新調のメリンスの兵児帯《へこおび》、車夫は色のあせた毛布《けっとう》を袴《はかま》の上にかけて、梶棒《かじぼう》を上げた。なんとなく胸がおどった。
 ——田山花袋『田舎教師』より

◎マインドフルネスについて「呼吸からはじめる(1)」

 自分が「いまここ」にいて、自分とまわりのことにフルに気づいている状態になるには、呼吸の観察からはじめるのがやりやすい。これはヨガや座禅でも推奨されている方法だ。
 じっと座っていても、立って静止していても、人間の身体のなかは動いている。心臓が脈打ち、血流が駆け巡っている。そしてそれよりはっきり感じとれる動きとしては、呼吸による動きがある。
 胸郭が動き、肺がふくらんだり縮んだりしている。横隔膜や腹部も動いている。それによって空気の流れが生まれ、鼻腔を出入りしている。まずその部分に微細な観察を向けていく。

2012年3月1日木曜日

3月1日

◎今日のテキスト

「随分遠いね。元来《がんらい》どこから登るのだ」
 と一人が手巾《ハンケチ》で額《ひたい》を拭きながら立ち留った。
「どこか己《おれ》にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
 と顔も体躯《からだ》も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
 反《そり》を打った中折れの茶の廂《ひさし》の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫《かすか》なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺《うご》くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然《きつぜん》として、どうする気かと云《い》わぬばかりに叡山《えいざん》が聳《そび》えている。
 ——夏目漱石『虞美人草』より

◎マインドフルネスについて「評価を手放す」

 大脳皮質が発達し、言語活動をおこなう人間は、いろいろな事象を「解釈」し、それに「意味づけ」をして「評価」をあたえてしまう癖を身につけてしまった。
 たとえば洗い物をしている時間は自分にとって価値の低い時間、できればなくしたい時間、資格を取るための勉強をしている時間は価値の高い時間、なるべく多く確保したい時間、というわけだ。しかし、どちらも自分が生きてすごしている時間であり、どちらもイキイキとマインドフルにすごせればこんなによいことはない。
 自分が勝手に「価値が低い」と判断した時間を生きている自分自身は、とてもかわいそうな自分である。ぜひそこから自分を救いだしてやりたい。そのためには「評価を手放す」ことが必要になる。