2012年8月9日木曜日

8月9日


◎今日のテキスト

 八月の曇った日である。一方に海があつて、それに鉤手《かぎのて》に一連の山があり、そしてその間が平地として、汽車に依って遠国の蒼渺たる平原と連絡するような、あるやや大きな町の空をば、この日例《いつ》になく鈍い緑色の空気が被《おお》っている。
 大きな河が海に入る処では盛んな怒号が起った。末広がりになった河口までは大河は全く平滑で、殆ど動《どう》とか力とかいふ感じを与えない、鼠一色《いっしき》
の静止の死物であるように見えていながら、一旦海の境界線と接触を持つとたちまち一帯の白浪が逆巻き上り、そして(遠くから見ていると)それが崩れかけた頃になって(近くで聴いたならば、さぞ恐しい音響であろうと思はれるほどの)音響が、遠くの雷鳴のように響いた。
 ——木下杢太郎「少年の死」より

◎人生の後半に光りがあること(一)

 私はすでに五十代なかばをこえ、昔でいえば立派な老人であり、現代でも初老にさしかかっているといってもいい年齢である。
 五十代から六十代というと、子どものころはもう死を待つだけの寂しい年齢のように思っていたし、自分がそのような年齢になるとは想像もできなかったのだが、実際にこの年齢になってみるとそう寂しいことではないとわかる。
 若いころにはずいぶんおろかに時間をすごしたり、あやまちを犯したりしたので、その埋め合わせをするようなところもあるが、それ以上に自分の力がわかり、また自分の力にまだまだのびしろがあることに気づくこともあって、悪いことばかりではない。
 残り人生に光明をもたらすためには、どのような生き方をすればいいのだろうか。

2 件のコメント:

  1. 〠子どもの頃家に捨て犬をもらったので『杢太郎』と名前をつけ、父に名札を書いて犬小屋へ掛けてもらい飼っていました。たまたま犬小屋の裏に”泰山木”の樹があったので・”キタロウ” でもなぁと思って何となくお名前拝借しました。でも木下杢太郎の人も作品も本当にはあまりよく知りませんでした。50年ち近く経ってしまいましたが、よい機会を頂いたので明日は”木下杢太郎”を辿ってみます。
    先日ひめくりスケッチに登場した海がめの振り返った顔がいかにも楽しそうで、思わずにっこり・☀・『海』のいきものには何故か迫力が・・
    水や森そして、四季の移ろい、子ども、地に足を着けて生きる人々・・美しい日本の情景や心が浮かぶような繊細で美しい作品が・・降って来ると思う。降って来ると思う。この手のひらに大切に受け止めようと思う。みなで受け止めようと思う。

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  2. そういえば、私も子どものころ、家に犬がいました。父親が好きで飼っていた柴犬でしたが。
    大人になってからはゴールデンリトリバーの男の子を飼ってましたが、6歳でリンパ腺種で死んでしまいました。あまりにつらかったので、いまだに犬は飼う気になれないですね。
    海のものいろいろなスケッチは、地球の命そのものにつながるような気がしてわくわくします。

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