2012年8月6日月曜日

8月6日


◎今日のテキスト

 市九郎《いちくろう》は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。
 ——菊池寛『恩讐の彼方に』より

◎風土(六)

 人口流動が大きい土地というのは、たとえば港町であったり、地方の中心都市であったり、幹線の途中にある街(昔なら宿場町)などだ。
 そういった土地にも特有の風土があり、それに影響を受けた地域性の偏重が起こりうるが、それ以上に流入人口があれば偏重を保持しにくくなる。また流入人口によってもたらされた新鮮な空気の影響もある。
 人口移動がかつてないほど非常に大きくなった現代においては、しだいに風土による地域的な個性の偏重は少なくなりつつあるが、実社会においてはまだまだ根強く残っているというのが現実だろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿