2012年8月10日金曜日

8月10日


◎今日のテキスト

 わたしは捨て子だった。
 でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが泣けばきっと一人の女が来て、優しくだきしめてくれたからだ。
 その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっしてねどこにははいらなかった。冬のあらしがだんごのような雪をふきつけて窓ガラスを白くするじぶんになると、この女の人は両手の間にわたしの足をおさえて、歌を歌いながら暖めてくれた。その歌の節《ふし》も文句も、いまに忘れずにいる。
 わたしが外へ出て雌牛の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを探しに来て、麻の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。
 ときどきわたしは遊び仲間とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、優しいことばでなぐさめてくれるか、わたしの肩をもってくれた。
 ——マロ『家なき子』(楠山正雄・訳)より

◎人生の後半に光があること(二)

 人は若くても年老いても、いずれもひとしく、過去を生きているのではないし、未来を生きることもできない。いま、この瞬間を生きているのが事実だ。
 年老いて「あと残り時間がどのくらいあるだろう」と計算するのもいいけれど、それ以上にいま生きているこの瞬間に全力をそそぎ、マインドフルにすごす。その積み重ねしか人生と時間を輝かせることはできない。
 若いころの人生にどれだけの後悔があろうとしても、いまこの瞬間をマインドフルに生きること。それがいまと、これからの人生に光をもたらしてくれる。

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