2012年5月9日水曜日

5月9日

◎今日のテキスト

 半月ばかりの避暑旅行を終って、わたしが東京へ帰って来たのは八月のまだ暑い盛りであった。ちっとばかりの土産物を持って半七老人の家をたずねると、老人は湯から今帰ったところだと云って、縁側の蒲莚《がまござ》のうえに大あぐらで団扇をばさばさ遣《つか》っていた。狭い庭には夕方の風が涼しく吹き込んで、隣り家の窓にはきりぎりすの声がきこえた。
 「虫の中でもきりぎりすが一番江戸らしいもんですね」と、老人は云った。 「そりゃあ値段も廉《やす》いし、虫の仲間では一番下等なものかも知れませんが、松虫や鈴虫より何となく江戸らしい感じのする奴ですよ。往来をあるいていても、どこかの窓や軒できりぎりすの鳴く声をきくと、自然に江戸の夏を思い出しますね。そんなことを云うと、虫屋さんに憎まれるかも知れませんが、松虫や草雲雀《くさひばり》のたぐいは値が高いばかりで、どうも江戸らしくありませんね。当世の詞《ことば》でいうと、最も平民的で、それで江戸らしいのは、きりぎりすに限りますよ」
 ——岡本綺堂『半七捕物帳』「奥女中」より

◎教えることは一番の学び

 なにか学んだことをだれかに伝えようとすると、自分の学びの不備がとたんに浮かび上がってくることがある。
 学んだ直後はわかったつもりになっていることでも、いざ人にそのことを説明しようとすると意外にきちんと理解していなかったり、うまく説明できなかったりする。それはつまり、学びのレベルが浅いのだ。
 「わかった」と思ったとき、人はそこで学びがストップする。わかったと思っていても、自分の理解のレベルがまだまだ低いと気づいたとき、人はさらに深い学びを求めて成長する。

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