2012年5月5日土曜日

5月5日

◎今日のテキスト

 私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚《はば》かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執《と》っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字《かしらもじ》などはとても使う気にならない。
 ——夏目漱石『こころ』より

◎超並行処理マシンとしての人間

 人にはいくつものことを同時に並行して処理できる能力がある。
 たとえば、自転車に乗りながら鼻歌を歌ったり、人としゃべったり、景色を楽しんだり。自転車に乗る、という行為自体が、さまざまなことを同時に処理している。バランスを取る、周囲に気をくばる、音に注意を払う、ハンドルを操作する、といったことだ。しかし、これらはほとんど無意識にやっている。つまり、脳は無意識の部分や身体にその処理を任せて、大脳皮質では「思考」していたりする。
 無意識や身体が勝手に仕事してくれるのを妨げるのは、往々にしてその「思考」だったりする。だから昔から人は「無」の境地をめざす。

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