2012年5月17日木曜日

5月17日

◎今日のテキスト

 眠りから覚めて目を開くまでの時間は、ごく短い。二秒ないだろう。
 目を覚ましたぼくは、自分が寝ている場所の香りにあらためて気づき、いつもの自分の場所ではないところに自分が眠っていたことを認識しなおした。
 ぼくは、目を開いた。天井が見えた。見なれない天井のたたずまいに、部屋の香りはよく似合っていた。香りというよりも、匂いだろうか。ベッドに違和感があった。なれた自分のベッドではなかった。
 あおむけになっていた体を横にむけつつ、ぼくは上体を起こした。ベッドの縁にすわり、両足をフロアに降ろした。板張りのフロアの感触が、足の裏に新鮮だった。
 すわっているぼくの正面に、窓があった。幅のせまい何枚ものガラスのブラインドが、おたがいに平行な段になって、水平にかさなりあっていた。そのブラインドがつくる、横に細いいくつものすきまから、外が見えた。
 ——片岡義男『時差のないふたつの島』より

◎音律の話(四)

 平均率ではない純正律などの音律では、ハ長調の「ドレミファソラシド」とヘ長調の「ファソラシ♭ドレミファ」とでは、音階の感じがまったく異なっている。
 たとえば、ハ長調の「ド」と「ミ」と、ヘ長調のそれにあたる「ファ」と「ラ」とでは、音の間隔が違うのだ。当然、それを同時に鳴らしたときの響きの印象も違う。
 平均率以外の音律では、調が変わると音階も変わり、当然曲の印象もがらっと変わる。それゆえ、バロック以前の曲は「調」の感覚が重要視されたのだ。平均率が主流になった現代では「調感覚」が稀薄になった。

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