2012年5月29日火曜日

5月29日

◎今日のテキスト

 地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧《みまき》ヶ原《はら》の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨《わらび》を採った。それから鴇窪《ときくぼ》という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
 私は今、小諸の城址《しろあと》に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李《すもも》も殆《ほと》んど同時に開く。城址の懐古園《かいこえん》には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時《いちどき》にすべての花を浚《さら》って行って了《しま》う。
 ——島崎藤村『千曲川のスケッチ』より

◎表現におけるオリジナリティ(一)

 なにか表現するとき、オリジナリティという問題が出てくる。
 人のオリジナリティとはなんだろう。その人の経験? 思想? あるいは生まれ持ったもの?
 突き詰めていくと、オリジナリティはその人の身体性にしかない、というところにぶちあたる。脳内にあるイメージや記憶や思考は、結局のところ後天的に外部から与えられて蓄積されたものだ。まっしろなコンピューターのメモリーにいろいろインプットされたようなものだからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿