2012年6月4日月曜日

6月4日

◎今日のテキスト

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑《おか》しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈《はず》だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房《にょうぼう》を貰《もら》い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃《ちかごろ》風の便りにききました。
時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 ——田中英光『オリンポスの果実』より

◎「ねばならない」について

 なにかをするとき、「〜しなければならない」と思ってするのと、「〜したい」と思ってやるのとでは、結果と過程が全然ちがってくる。
 仕事に「行かなきゃならない」と思って出かけるのと、仕事に「行きたい」と思って出かけるのとでは、内容が全然ちがってくるのは容易に想像できるだろう。
「ねばならない」と思うとき、それは「強制」の意識が働いている。だれかからの強制であったり、自分自身であったり。しかし「したい」と思うとき、それは自分自身のなんらかのニーズにつながっている。
「仕事に行きたい」と思うのは、たとえば経済的な余裕によって自分の生活が安定したり安全を確保したり、家族がくつろぐ場を確保するためであったり、あるいは自分がやりたいことをやれる時間やお金を確保するためであったり。そのニーズがはっきりしていれば、「ねばならない」が「したい」に変化する。

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