◎今日のテキスト
駅を出ると、私は荷物が二つばかりあつたので、どうしても車に乗らねばならなかつた。父と二人で、一つづつ持てば持てないこともなかつたけれども、小一里も歩かねばならないと言はれると、私はもうそれを聴くだけでもひどい疲れを覚えた。
駅前に三十四年型のシボレーが二三台並んでゐるので、
「お前ここにゐなさい。」
と父は私に言つて、交渉に行つた。私は立つたまま、遠くの雑木林や、近くの家並や、その家の裏にくつついてゐる鶏舎などを眺めてゐた。淋しいやうな悲しいやうな、それかと思ふと案外平然としてゐるやうな、自分でもよく判らぬ気持であつた。
――北條民雄「柊の垣のうちから」より
◎昏沈《こんじん》
昏沈という言葉がある。仏教用語だが、人のある状態をさすことにも使われる。精神にエネルギーがなくなって、なにもかんがえることもできず、ただぼーっと放心している状態である。
この状態のとき、人は無表情になり、目はどこを見るともなく死んだようになっている。外見は「反芻思考」におちいってるいる人と寸分たがわない。
昏沈も反芻思考も、ともにいきいきとした精神状態からはほど遠いもので、どちらも「いまここ」にある自分自身を生きてはいない。自分がそういった状態におちいっていることに気づいたら、ただちに呼吸に意識を向け、自分のいまここの身体を取りもどしてほしい。
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