2013年1月28日月曜日

1月28日


◎今日のテキスト

 わたしは庭に降りて毛虫を探し、竹棒でそれをつきころしていた。それは丁度、若葉が風にゆらいでいきいきとしており、モスの着物が少しあつすぎる入梅前のこと、素足にエナメル草履の古いのをつっかけて庭掃除に余念がなかった。毛虫は、ほんの二坪位の庭より十匹余りも出て来た。石のくつぬぎに行儀よく並べた死骸を又丁寧に一匹ずつ火の中に放りこもうとして紙屑を燃やした。紙屑は、図案のかきつぶしである。めらめらと燃えるたくさんの和紙の中に、毛虫共は完全に命を終えた。その時、私は夫のことを思い出した。戦争に征って四年、とうとうそのシベリヤにたおれてかえらぬ身となってしまったのである。急性肺炎で病死したという報をきいたのは去年の秋であった。
 ――久坂葉子「入梅」より

◎集中するということ(二)

 私たちが受けてきた学校教育では「集中」というと、まわりがなにが起ころうと、なにが聞こえようと、それをシャットアウトして自分がやっていることにのめりこむようにいわれた。しかしそれは「執着」であって、「集中」とはちがう。
 理想的な集中のコツは、外側から流れこんでくるさまざまな情報にたいして自分の感覚をひらき、それらを遮断せず受け入れて身を任せることだ。そうやって刺激や情報が自分のなかを流れるままに任せておきつつ、自分がおこなっていることに執着せずに集中する。このフロー状態に入れるようになると、時間の流れる感覚も変化してくる。ホームランを打つときの野球選手がボールが止まって見えたといい、ボクシングの選手がパンチを紙一重でかわす瞬間の濃密な時間感覚がやってくる。

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