2013年1月2日水曜日

1月2日


◎今日のテキスト

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子《はしご》に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧《むし》ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。
 ――芥川龍之介「或阿呆の一生」より

◎情報過多の時代?

 現代は情報過多の時代といわれている。本当にそうなのだろうか。
 たしかに世の中には情報があふれ、これでもかこれでもかとさまざまな情報が押しよせてきて、おぼれそうな気になってしまう。ついていけないと乗り遅れるんじゃないかという強迫観念すら起こることがある。
 しかし、よくかんがえてみれば、これらの多くは言語情報もしくは視覚情報である。
 いまのように言語情報や視覚情報があふれていなかった時代の人々は、では受け取る情報は少なかったのだろうか。たしかに言語情報、視覚情報は少なかったかもしれない。が、想像するに、感覚情報は非常にリッチだったのではないか。音、匂い、味、手触り、空気、季節感、気配。そういったものを現代人以上に豊かに受け取っていたような気がしてならない。
 現代人の私たちもある程度そこへと回帰することは可能なのではないだろうか。

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