2012年3月31日土曜日

3月31日

◎今日のテキスト

 どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 ——宮沢賢治『風の又三郎』より

◎集中のふたつのレベル

 なにかものごとをするとき、集中するということがある。この集中にも、ふたつの状態がある。
 ひとつめは集中するあまり、まわりの物音が聞こえなくなったり、時間の経過もわからなくなったり、自分の名前を呼ばれても気づかない、という状態だ。これはだれしも経験したことがあるだろう。
 もうひとつの集中の状態は、自分がやっていることに完全に集中しているのに、まわりで起こっていることが完全に見えたり聞こえたりしている、というもの。
 前者は外部からの情報が遮断されている状態。後者は外部からの情報が流れこんでいながらも、集中力が持続している状態。この状態を「フロー」と呼んだりする。フローは特別な人だけができることではなく、だれもが訓練でできるようになる。

2012年3月30日金曜日

3月30日

◎今日のテキスト

 四月×目
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ! と怒鳴ったところで、私は一匹の烏猫、世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃる。
 ——林芙美子『放浪記』より

◎指の形で声が変わる?

 古来からの武術家の知恵だが、いつもより大きな力を出したいとか、いつもよりすばやく動きたい、というときに、指を特殊な形に組んだり、ある形にギュッと力を入れることがある。
 たとえば、密教の行者が「印」を結ぶ、というような行為も、身体の一部をある形にすることで、身体全体の動きを変えるというようなことだろうと思う。
 西洋医学的な身体の認識になれてしまっている現代人にはちょっと不思議な方法かもしれないが、東洋医学や東洋思想では古来から、一部は全体に影響を与えるということが伝えられている。足の裏のツボの地図が身体全体に対応しているのは「反射区」といわれて、これは現代でもかなり有用性が認められている。
 音読するときにも、指とか足とか、身体のどこか一部にちょっと力をいれてみたり、姿勢を変えてみることで、自分の声や呼吸がどのように変化するのか、観察してみるとおもしろい。

2012年3月29日木曜日

3月29日

◎今日のテキスト

 ますぐなるもの地面に生え、
 するどき青きもの地面に生え、
 凍れる冬をつらぬきて、
 そのみどり葉光る朝の空路に、
 なみだたれ、
 なみだをたれ、
 いまはや懺悔をはれる肩の上より、
 けぶれる竹の根はひろごり、
 するどき青きもの地面に生え。
 ——萩原朔太郎「竹」

◎「いまここ」を生きるのは将来設計がないこととは違う

 マインドフルに「いまここ」に集中するのは、将来のことをなにも考えないことではないし、過去に学ばないことでもない。
「いまここ」にいる自分がなにを感じ、なにを大切にしているかということにつねに意識を向けることで、いまこの瞬間自分がなにをしたいのか、どのようにありたいのかを決定する根拠ともなる。それがわかれば、計画は自然に生まれてくる。また、過去に学んで次はどうすればよいのかも自然にわかってくる。
 恣意的にあれやこれや都合やらなにかの枠組みのなかで計算的に計画や人生設計を作るのではない、ということだ。

2012年3月28日水曜日

3月28日

◎今日のテキスト

山路《やまみち》を登りながら、こう考えた。
智《ち》に働けば角《かど》が立つ。情《じょう》に棹《さお》させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高《こう》じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟《さと》った時、詩が生れて、画《え》が出来る。
——夏目漱石『草枕』より

◎イフ(if)の罠

人はよく「あのときこうしておけばいまごろこんなことにはなっていなかったのに」とか、「あのときああしなければこんなことにはなっていなかったのに」という後悔にさいなまれることがある。
これは一種の思考パターンである。
「ああしておけば」も「ああしなければ」も、いずれの選択肢を取っていたにせよ、現在は後悔に満ちているだろう。つまりは「過去の選択肢を思い悩んで現在を後悔する」という思考パターンに陥っているにすぎない。すべては「いまここ」の選択肢に意識を向けることにある。

2012年3月27日火曜日

3月27日

◎今日のテキスト

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜《あかぬ》けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 ——太宰治『人間失格』より

◎音読日めくりを持ち歩く

 気分が落ちこんだとき、もやもやしているときには、まずは呼吸。そしてマインドフルネスを心がけ、反芻思考を断ち切ることが有効であることはすでに書いた。
 呼吸法をおこなってもなかなか雑念が追い払えないという人は、気にいった文章を読むといい。できれば声に出して。
 私の知り合いの何人かは、この「音読日めくり」をプリントアウトして持ち歩いている。いつでも読めるように。気にいった文章だけ持ち歩けばいいし、手帳などに書き写しておいてもいい。頭のなかにいれておいて、いつでも暗唱できるようにしておくのもいい。

2012年3月26日月曜日

3月26日

◎今日のテキスト

 春の小川は さらさら流る。
 岸のすみれや れんげの花に、
 においめでたく 色うつくしく
 咲けよ咲けよと ささやく如く。

 春の小川は さらさら流る。
 蝦《えび》やめだかや 小鮒《こぶな》の群れに、
 今日も一日 ひなたに出でて
 遊べ遊べと ささやく如く。

 春の小川は さらさら流る。
 歌の上手よ いとしき子ども、
 声をそろえて 小川の歌を
 うたえうたと ささやく如く。

——高野辰之「春の小川」オリジナルバージョン

◎「春の小川」のオリジナル版

「音読日めくり」を読んでくれている方から貴重な情報をいただいた。
 3月23日分として掲載した高野辰之の「春の小川」は、文部省唱歌として採用されたときのもので、オリジナルにかなりの改訂が加えられたバージョンだということである。そしてオリジナルバージョンを教えてもらった。
 今日はそのオリジナルバージョンを掲載させていただく。文部省唱歌版とはかなりおもむきが違った感じがする。それを味わってみてほしい。
 情報をお寄せいただいたことに感謝します。

2012年3月25日日曜日

3月25日

◎今日のテキスト

「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
——宮沢賢治「マグノリアの木」より

◎自分という意識を開く

「自分」や「自我」の概念が強くなればなるほど、人は生き方や自分の存在の意味に苦しむ。
 マインドフルネスの実践では、まずは自分の存在=身体に意識を向けることから始めて、しだいに外側へと感覚を開いていく。
 宮沢賢治のこの文章には、この時代にあってすぐれた「自己認知」の原理が書かれている。「あなた」という他者は自分の意識に投影されている存在であり、自分自身と区別せねばならないものではない、といっているのだ。それは逆に、自分自身も他者に投影された存在であり、自分は他者のなかで生きているともいえる。
 そのような認知で行なう生活や表現はどのようなものになるだろうか。