2012年12月9日日曜日

12月9日


◎今日のテキスト

 しずかに更《ふ》けてゆく秋の夜。
 風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の病葉《わくらば》が散りかかるのであろう。その風が隙間を洩れて、行燈《あんどん》の灯をあおるたびに、壁の二つの人影が大入道のようにゆらゆらと揺ぐ――。
 江戸は根津権現《ねづごんげん》の裏、俗に曙《あけぼの》の里といわれるところに、神変夢想流《しんぺんむそうりゅう》の町道場を開いている小野塚鉄斎《おのづかてっさい》、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。霜をとかした流水がそのまま凝《こ》ったような、見るだに膚寒い利刃《りじん》である。刀を持った鉄斎の手がかすかに動くごとに、行燈の映《うつ》ろいを受けて、鉄斎の顔にちらちらと銀鱗が躍る。すこし離れて墨をすっている娘の弥生《やよい》は、何がなしに慄然《ぞっ》として襟《えり》をかきあわせた。
  ――林不忘『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』より


◎音読や朗読に向いている声/向いていない声

 人から「朗読に向いているいい声だ」とか、自分の声は通りが悪いので音読に向いてないとか、さまざまな理由で勝手な判断をしている人がかなりいる。
 音読や朗読に向いているとか向いていないといった声は、本来ない。あるのはその人の本来持っている自然な声か、あるいはなんらかの理由で不自然な作り声になってしまっているか、という区別だ。
 音読療法では本来の自然な、無理のない、正直な声と読み方を用いるのがよいことはいうまでもない。とはいっても、自分の自然な声とはどのような声なのか、わからない人が多いことも事実だ。

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