2012年11月7日水曜日

11月7日


◎今日のテキスト

此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、まず客ぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近のうち、土佐の方へも参り申候。
 ――坂本龍馬「文久三年五月十七日 坂本乙女あての手紙」より

◎無数の体験記憶といまここの体験

 秋が深まってきた。たとえば山の紅葉を見るとき、私たちはどんなことをかんがえるだろうか。
 私たちのなかには「紅葉」にまつわるたくさんの記憶があり、年齢を重ねれば重ねるほどそれは多く蓄積されていく。紅葉を見るとき、瞬時にそれらの記憶がよみがえり、いまこの瞬間の紅葉を味わうことから離れ「思い出にひたる」ような思考回路におちいってしまうことがある。
 しかしかんがえてみてもほしいのだが、私たちは思い出のなかに生きているのではない。いまこの瞬間を生きているのだ。いまこの瞬間を全身で味わうことが自分自身を生き生きと形づくっていく。

2012年11月6日火曜日

11月6日


◎今日のテキスト

 匂いって何だろう?
 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。
 私は近頃死んだ母が生き返ってきたので恐縮している。私がだんだん母に似てきたのだ。あ、また――私は母を発見するたびにすくんでしまう。
 ――坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』より

◎表現すること

 音読療法には「テキストを声をだして読む」ことをするが、これは一種の表現療法ともいえる。
 人は絵を描いたり、音楽を演奏したり、踊ったり、自分を表現する行為のなかで癒しを得ることができる。なにかを表現するというのは自分自身のこころと身体の整合性を作るのに役立つからだ。
 ときどき「自分には表現したいことがない」「なにを表現していいのかわからない」という人がいるが、そんなことを気にやむ必要はない。人は表現したいことがあるから表現するのではなく、表現してみてはじめて自分がなにを表現したかったのか「後からわかる」のだ。つまり表現とは自分を再発見することでもある。これがこころの病から回復したり、防止することに役に立つ。

2012年11月5日月曜日

11月5日


◎今日のテキスト

「おい地獄さ行《え》ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛《かたつむり》が背のびをしたように延びて、海を抱《かか》え込んでいる函館《はこだて》の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草《たばこ》を唾《つば》と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹《サイド》をすれずれに落ちて行った。彼は身体《からだ》一杯酒臭かった。
 ――小林多喜二『蟹工船』より

◎人になにかを頼むとき

 だれかになにかを頼むとき——たとえば自分が手の離せない状態にいて、かわりにだれかに必要ななにかを買ってきてもらう必要があるとき、あなたはどのようにいうだろうか。
「申し訳ないけど、○○を買ってきてくれない? 忙しいのにごめんね」
 とかなんとか。
 とてもへりくだるのは日本人の美点でもあり、また欠点でもある。時と場合にもよるが、必要以上にへりくだることはない。
 なにかを相手に頼むとき、相手にしてみればあなたに対して「貢献するニーズ」を満たすチャンスかもしれない。「あなたの、私に対する貢献のニーズを満たすチャンスをあげる」という態度でなにかを頼むことができれば、とても気が楽になるかもしれないし、それは相手にとっても気楽さを確保するかもしれない。

2012年11月4日日曜日

11月4日


◎今日のテキスト

「アナタア、ザンパン、頂だい。」
 子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套《がいとう》にくるまって、頭を襟の中に埋《うず》めるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。
 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。
 風に吹きつけられた雪が、窓硝子《まどガラス》を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍《い》てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜《シベリア》だと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることなどは、内地では見られない現象だ。
 ――黒島伝治『渦巻ける烏の群』より

◎1級ボイスセラピスト講座

 今日は1級ボイスセラピスト講座の第4期の後半が開催される。
「後半」というのは、もちろん「前半」があるからだが、それぞれ午前10時から午後5時までほぼ丸一日をついやして勉強する。
 1級の場合、老人ホームや学校、地域コミュニティ、職場などでのグループ音読ワークができるようになるスキルを身につけてもらうのだが、丸二日間をついやしてもなかなかすぐにはひとりでそういった音読ワークができるようにはならない。だから、よりスキルアップしてもらうことと経験をつんでもらうために、繰り返し講座を再受講してもらったり(すべて無償)、先輩たちの音読ワークに手伝いとして積極的に参加してもらうようにしている。

2012年11月3日土曜日

11月3日


◎今日のテキスト

「武蔵野の俤《おもかげ》は今わずかに入間《いるま》郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原《こてさしはら》久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。
 ――国木田独歩『武蔵野』より

◎音読日めくりの一年

 今年の2月13日にスタートしたこの音読日めくり。この日付には深い意味はなく、たんに始めようと思いついてスタートした日付にすぎない。
 スタートしたとき、とにかく1年はつづけようと決めていたのだが、始めてすぐに「これはなかなかに大変なことだ」と思い知った。しかし、読んでくれる人、音声化してくれる人、感想を寄せてくれる人がいてくれるおかげで、なんとかつづけてこれた。
 ふと気づいたら、1年間という期限までにちょうど残り100日となろうとしている。我ながら大きな仕事をしてこれたなと思う。
 そもそも小説家なので、原稿用紙にして800枚をこえる長編小説を書きあげたこともあるし、デビュー作などは書きなおしに書きなおしを重ねて、たぶん1000枚以上書いたと思うが、それ以上にこの「音読日めくり」は自分のなかで大きな仕事という実感がある。
 気合いをいれて残りも丁寧にやりたいと思っている。

2012年11月2日金曜日

11月2日


◎今日のテキスト

 真贄《しんし》の隣に熱意なる者あり。人性の中に若《も》し「熱意」なる原素を取去らば、詩人といふ職業は今日の栄誉を荷《にな》ふこと能はざるべし。すべての情感の底に「熱意」あり。すべての事業の底に熱意あり。凡《すべ》ての愛情の底に熱意あり。若しヒユーマニチーの中に「熱意」なるもの無かりせば、恐らく人間は歴史なき他の四足動物の如くなりしなるべし。
 労働と休眠は物質的人間の大法なり、然れども熱意は眠るべき時に人を醒《さ》ますなり。快楽と安逸は人間の必然の希望なり、然れども熱意は快楽と安逸とを放棄して、苦痛に進入せしむることあり。生は人の欲する所、死は人の恐るる所、然るに熱意は人をして生を捐《す》て、死を甘受する事あらしむ。
 ――北村透谷「熱意」より

◎息を吸うことに難儀がある人

 ながらくうつ病やパニック障害を持っている人たちと接してみると、呼吸法のときに息を吸うことに難儀を訴える人が多いことに気づく。
 息をいっぱいに吸いこむことができない、胸に痛みがあって大きく吸えない、肺がいっぱいになる感覚がわからないなど、表現はさまざまだが、これ以上息を吸えないというところまで肺をいっぱいにすることができない人が多い。
 これらはいずれも、長年にわたる浅い呼吸によってこわばってしまった呼吸筋のせいだ。ゆったりした呼吸法で呼吸筋をほぐし、強化していくことによって、時間をかけてゆっくりと深い呼吸を取りもどすことを心がけるといいだろう。

2012年11月1日木曜日

11月1日


◎今日のテキスト

 空《そら》に真赤《まっか》な雲《くも》のいろ。
 玻璃《はり》に真赤な酒の色。
 なんでこの身が悲しかろ。
 空に真赤な雲のいろ。
 ――北原白秋『邪宗門』より「空に真赤な」

◎非共感的な現代社会(二)

 ペーパーテストで点数をつけられ、序列をつけられる。走ったり飛んだりでは数値を計測され、それもまた序列をつけられる。教師からは努力すれば「上」に行けると教えられ、親からもがんばって成績を上げるように尻をたたかれる。「上」にいけばあたかも幸福が約束されているかのように、競争することを繰り返し教育される。
 人と競争すること、相手よりすこしでも上に立つこと、これが習い症となってしまっている。だから、ただ会話していても相手よりすこしでも上位に立とうとして「評価」の言葉を与え、求められてもいないアドバイスを与え、聞かれてもいない自分の物語をまくしたてる。
 この習性をべつの習性に——共感的に聞くという習性に起きかえられたとき、そこには競争原理では決して得られることのないおたがいを大切にしあう豊かなつながりの質が生まれるし、競争しなくても人は本来の能力をのばしていけるのだということにも気づくだろう。