2014年3月31日月曜日

マインドフルな3月31日

音読療法の三本の柱は「呼吸法」「音読」「共感的コミュニケーション」です。
その柱の土台には「マインドフルネス」があります。
つまり、呼吸法をやるにせよ、音読をやるにせよ、マインドフルネスをこころがけたり、またマインドフルネスを実現するためにやる、相互補完関係がそれぞれにあるということです。
呼吸法や音読エチュードをおこなってマインドフルネスを深める、マインドフルネスを意識しながら共感的コミュニケーションをおこなう、ということで補完的にそれぞれをさらに有効にできます。

マインドフルの練習(93)
ハーモニカでもリコーダーでも鍵盤ハーモニカでもなんでもいいんですが、子どものころ使っていた楽器が家のなかにありませんか?
それを出してきて、吹いてみます。
いずれも、自分の呼吸を使う楽器です。
ぷうーと吹くと音が出ます。
上手に演奏することが目的ではなく、自分が出した音を味わってみることがマインドフルの練習です。
できるだけ長く音を出して、その音の感触をただ味わってみます。

2014年3月30日日曜日

マインドフルな3月30日

修行僧が毎日、おなじ日課をこなし、おなじ食事をするというのには、意味があります。
繰り返しの苦痛に耐える修行をするためではありません。
繰り返しだと思える、あるいは思いこんでいることも、じつは毎日毎日、おなじものはふたつとしてない、ということを確認するためです。
毎日食べている玄米も、ひとつぶひとつぶが昨日食べたものとはちがいます。
また、それを食べている自分自身も、昨日の自分とはちがいます。
そういうことを刻々と確認するために、おなじ日課を繰り返すことを修行としておこなっているのです。

マインドフルの練習(92)
コップに水をいれ、ストローを差します。
水を飲むのではなく、ストローから息を吐きだします。
ストローの先から気泡がぶくぶくと出てきます。
できるだけ一定の速度で長く息を吐いて、息がなくなるまでぶくぶくします。
そのときの自分の呼吸のようすと、ぶくぶくいう音や振動を自分がどのように受け取っているのか、ただ感じてみましょう。

2014年3月29日土曜日

マインドフルな3月29日

毎日、おなじことをする、ということに飽きてしまうことがあります。
たとえば、朝起きたらかならずストレッチをしよう、と決めてはじめたとします。
おなじストレッチを毎日していると、飽きてしまいがちで、しだいにやらなくなってしまいます。
そうではなくて、毎日おなじことをするというのは、自分自身の変化を知るためのものさしの役割をはたしてくれます。
おなじストレッチをしても、昨日と今日の自分はかならずどこかちがっている。
まったくおなじ自分というのはただの一日もありません。
昨日の自分と今日の自分がどのようにちがうのか、身体の状態やクオリティは今日はどんな感じなのか、それを知るために毎日なにかおなじことをやってみるというのは、とても有効なのです。

マインドフルの練習(91)
ストレッチをしながらのマインドフルの練習です。
両手を頭のうしろで組み、両肘を左右にまっすぐ、洗濯竿を差しわたすように張ります。
息を吐きながらそのまま上体を右でも左でもかまいませんが、ねじってうしろを向きます。
背がそらないように気をつけてください。
ねじりきって、息を吐ききったら、あとはその姿勢をキープし、自然呼吸をつづけます。
ねじれてテンションがかかった身体のようすを観察しながら、三、四呼吸キープします。

2014年3月28日金曜日

マインドフルな3月28日

音楽にしても、絵にしても、風景にしても、自分が知っているものにふたたび出会った、あるいは知っているものに近い、という感覚が起こったとき、こころが動くことがあります。
逆に、見たことも聞いたこともないものにあらたに出会ったときにも、こころが動くことがあります。
いずれにしても、自分のなかの価値観に触れ、それが満たされたときに感動が起こるのです。
あるいは満たされつづける、という動きそのものが起こる場合もあります。
なにかに感動する、あるいは不快感をおぼえる、というこころの動きは、自分がなにを大切にしているかを教えてくれます。

マインドフルの練習(90)
ストレッチをしながらのマインドフルの練習です。
両手を頭のうしろで組み、両腕の重さだけで首をゆっくりと前にたおします。
そのとき、いっしょにゆっくりと呼吸を吐きだしていきます。
首のうしろ(僧帽筋の上部)の筋肉が伸び、息が吐ききれたら、あとは自然呼吸にもどします。
筋肉が伸びている感じや身体全体の感覚を、呼吸から意識をはなさないまま観察します。

2014年3月27日木曜日

マインドフルな3月27日

「感動する」というのは、感情、つまりこころが大きく動く、ということです。
こころが動くのはどういうときでしょう。
自分が物理的に動いたときです。
物理的に動いてなにか反応があった、なにかを見た、なにかを聴いた、なにかに触れたり接したりした、といったとき、こころが動きます。
それが心地よく、しかも大きく動いたとき、「感動した」といいます。
では、感情やこころが動くのはなぜでしょう。
それは自分が大切にしていること、価値、必要なこと(ニーズ)と関係があります。

マインドフルの練習(89)
身体のストレッチでマインドフルの練習をしてみます。
首の横(斜角筋群があります)を伸ばしてみます。
左手で頭頂からやや右のあたりまでつかんで、頭を腕の重さだけで左に傾けます。
首の右側が伸びていきます。
このとき、いっしょにゆっくりと呼吸を吐きます。
吐ききったら、あとは自然呼吸にもどし、呼吸、首の伸びている部分のようす、そして身体全体の感じを観察しながら、三十秒くらい保持します。
首の左側もおなじようにやってみましょう。

2014年3月26日水曜日

マインドフルな3月26日

小学校の通信簿の、科目の成績とは別の評価欄に、「生命や自然のすばらしさに感動する」というものがあるようです。
「感動できるかどうか」なんてことを評価の対象にできるのかどうか、疑問に思います。
そもそも、子どもを「評価する」教育そのものが、私には疑問に思うのです。
「感動する」とはどういうこころ(あるいは身体)の動きや状態なのでしょう。
自分がなにかに感動したとき、どのようなことが起こっているのか、感動が過ぎ去ってからでいいですから(そもそも感動している最中には無理ですが)客観的に自分のなかに起きたことについて検証してみてください。

マインドフルの練習(87)
リンゴを片手に持ったまま、左右にゆっくりと動かしてみます。
上下に動かしたときとは別の筋肉と神経がはたらき、それと連動して動く身体全体のようすもちがった変化を起こすことが観察できるでしょうか。
その精妙な身体の動きが私たちの生命活動そのものであり、それをいちいち頭でコントロールすることなどできないことがわかるでしょうか。

2014年3月25日火曜日

マインドフルな3月25日

だれかから頼まれたり、自分から申し出た仕事をやるときに、「やらなければ」という気持ちが生まれることがある。
その気持ちの奥には義務感がある。
もともとは純粋に相手の役に立ちたくて引き受けたり、自分から買ってでたはずなのに、いそがしくなってしまったり体調がすぐれなかったりめんどくさくなってしまったりしてしまうことがある。
そういうとき、無理にやろうとすると義務感を駆りたてるしかなくなる。
しかし、義務感というのは、人と人の関係を「共感的」ではないものにしてしまう。
すこしでも義務感を感じたら、そもそもどのような気持ちでその仕事をしようとしたのか、静かに自分の内側を見つめてみたい。

マインドフルの練習(85)
リンゴを片手に持ちます。
リンゴじゃなくても、みかんでもバナナでも、あるいは本でもなんでもいいんですが。
それをゆっくりと、スローモーションで持ちあげます。
リンゴの重さ、その重さを持ちあげる自分の腕の動き、腕そのものの重さ、身体の変化をつぶさに観察します。
マインドフルネスが深まり、観察が緻密になればなるほど、リンゴを持ちあげるという単純な動きのなかにじつに複雑な生命活動があることに気づくはずです。

2014年3月24日月曜日

マインドフルな3月24日

「自分はひと前で話すのが苦手な人間だ」とか「あの人はお金もうけが好きだ」などと、自分や他人を規定することで、本当のことが見えなくなったり、自分の本来の能力が発揮できなくなったりします。
そういうときは自分のニーズを推測してみます。
それから相手のニーズも推測するだけでよく、実際に聞いてたしかめてみる必要はありません。
自分はいまこの瞬間なにを必要としたり、大切にしたりしているんだろう。
あの人はいまこの瞬間なにを必要としたり、大切にしたりしているんだろう。
推測するだけで自分が作りだした「規定」が消えていきます。

マインドフルの練習(84)
楽な姿勢で立ちます。
まず息を全部吐きだしてから、鼻からゆっくりと吸っていきます。
そのときに、肺に空気がはいってくる速度にあわせて両手を鳥がはばたくように上にあげていきます。
吸いきったら、また吐いていきますが、そのときには両手を下へとおろしていきます。
呼吸にあわせて両手をはばたかせてみましょう。

2014年3月23日日曜日

マインドフルな3月23日

「自分はこういう人間だ」と規定してしまうことがあります。
「不器用な人間だ」「気が弱い」「親から受けたプレッシャーのせいで対人関係がうまくできない」「引っ込み思案だ」など、際限なく自分を決めつけることばかりやってしまいます。
のびのびと自分の能力を発揮できるはずなのに、自分自身を規定しまうことで本来の能力が発揮できなかったり、おどおどした態度になってしまったりします。
自分を規定しようとしているのに気づいたら、マインドフルネスをこころがけ、いまこの瞬間の自分のニーズ(必要性/価値)に目を向けてみましょう。
自分はなにが大事なのか、「いまここ」の自分はなにを必要としているのか、そこに気づけたら、ふたたびのびのび・イキイキした自分がもどってきます。

マインドフルの練習(83)
椅子に楽な姿勢で座ります。
呼吸に目をむけ、それが深くゆっくりと落ち着くのを待ちます。
両手を太ももの上に軽く乗せ、掌を上に向けます。
自分の掌が樹の葉っぱであるかのように、それが風に吹かれて動くかのように、わずかに動かしてみます。
どんな感じがするでしょう。
呼吸から意識をそらさないまま、掌の感じを観察してみてください。

2014年3月22日土曜日

マインドフルな3月22日

時間軸の混同は、人間が記憶や想像力を持ってしまったことによるもっともやっかいな現象です。
自分がおこなったことが「結果的に」なにかをもたらし、人を喜ばせたり怒らせたり悲しませたり、あるいは批判や攻撃を受けたりします。
そういう経験が記憶にしみついてしまい、人を喜ばせるために自分の行動を決めたり、批判や攻撃を受けないように行動に制限をかけたりします。
そのようにしておこなわれたことは、その人の最高のパフォーマンスにはなりえません。
時間は逆にすすまないのだ、という事実をよく見きわめなければなりません。

マインドフルの練習(82)
樹を見るように自分の身体を観察するとき、最初は大きな動きにしか気づけないでしょう。
樹が風に揺れたり、雨に打たれたりして見せる動きは、だれにでも気づきやすいものです。
自分の身体もおなじです。
しかし、繊細に身体を観察する習慣を身につけると、樹の葉の一枚一枚のようすや、枝ぶりや、芽吹きや、幹の感触など、微細な変化に気づけるようになるでしょう。
自分の身体の動きだけでなく、そこにある感触・感じにも注目して、じっくりと観察してみましょう。

2014年3月21日金曜日

マインドフルな3月21日

マインドフルネスの練習をするとき、よく「自分の身体の声を聴く」ということをいいます。
それがどういうことなのかよくわからない、自分の身体をうまく感じることができない、という人が多くいます。
また、自分の身体の声が「聴けているつもり」になっている人もいます。
私たち現代人は、とにかく頭脳偏重で生まれ育ち、社会生活をいとなんでいるので、自分の身体がなにをいっているのか、どういう信号を発しているのか、まったく注意深く見ることができません。
だから、自分の身体のことをあらためて感受する練習が必要だし、それはなかなかやっかいな面もあるのです。

マインドフルの練習(81)
自分の身体を観察するというのは、野原に立っている樹を見るようなものです。
樹は風に揺れたり、雨に打たれたりして変化しますし、季節によってゆっくり姿を見る変えたり成長したりしますが、人間は動物なのでより動的な存在です。
ただ立ってみましょう。
自分の身体の「動き」に注目してみましょう。
樹を見るように。
動的な存在である人間は、その内側からの動きがあります。

2014年3月20日木曜日

マインドフルな3月20日

スポーツにせよ武道にせよ表現にせよ、なにかものごとをおこなうのに上手な人がいて、その人が他より突出している場合、ほかの者はその人のように上手になりたいと、教わったりまねをしたりします。
そうやってたしかに上達がはやくなりますが、注意したいのは、その達人と自分とはちがう人間だということです。
達人にとって有効な動きややりかたが、そっくりそのまま自分にも有効とはかぎりません。
やってみて、自分にとってはどのように有効性があるのか、あるいはべつの方法があるのか、それは自分の身体にきいてみるしかありません。
いずれにしても、自分の身体の声を丁寧に聴き、自分とむかいあっていくしかないのです。

マインドフルの練習(80)
まっすぐ立って呼吸に意識を向けます。
呼吸が落ちついたら、自分の身体全体を立ったまま前後左右に揺らしてみましょう。
人は二本足で立つ動物で、四本足の動物よりバランスをくずしやすいのですが、それでも重心にはかなりの遊びがあって、足を一カ所に固定したままでも前後左右に身体を傾けることができます。
自分の重心にどのくらいの遊びがあるのか、のんびりと楽しみながらたしかめてみましょう。

2014年3月19日水曜日

マインドフルな3月19日

なにかやりたいことがあってそれをやってみることと、その結果として評価や批判、攻撃などが生まれることについて、人は時間軸を混同してかんがえてしまうことがあります。
なにかをやる前にあらかじめ評価や批判、攻撃を予測し、本来自分がやりたかったことやその方法を変えてしまうのです。
そうすると、やりたかったことのなかにやりたくないことが混じりこみ、行為には濁りが生じます。
自分もつまらないし、予測したことが本当にそのとおりになるかどうかは、実際におこなってみなければわからないのです。

マインドフルの練習(79)
まっすぐ立って呼吸に意識を向けます。
呼吸が落ちついたら、自分の立っている姿勢をチェックしてみましょう。
とくに腰、骨盤の位置をチェックしてみます。
骨盤を前後にすこし動かしてみるとどんな感じになりますか?
骨盤が身体の重心をささえるちょうどまんなかの、具合のいい位置を探してみましょう。
腰の位置がおちついたら、呼吸をつづけながら身体全体の感じを味わってみます。

2014年3月18日火曜日

マインドフルな3月18日

直接人と会って話をしたり、いっしょになにかをすることを面倒がり、できればメールなどオンラインで用事をすませてしまおうとする人が増えています。
直接会ってことばだけでなくさまざまな情報を交換することは、メールなど電子の情報交換にくらべれば非常にリッチな質を持っています。
リッチな情報を処理することに面倒さを感じたり、ひるんだりするのが、現代人の特徴といえるかもしれません。
結局のところ、その態度が事態を面倒にすることも多々あるわけですが。

マインドフルの練習(78)
目を閉じて、身体の前に水平に両手をまっすぐのばし、人差し指を内側にまげて指の先端をゆっくりと近づけていきます。
うまくいけば人差し指の先端と先端がぴったり出会うわけですが、目を閉じたままだとなかなかこれがうまくいきません。
自分が頭のなかでイメージしている自分の身体の状態や動きのようすと、実際の状態や実際の動きとは「ずれ」があるのです。
それを目を閉じて人差し指を合わせるひとりゲームで確認してみましょう。

2014年3月17日月曜日

マインドフルな3月17日

マインドフルというのは、自分がいまおこなっていること、いまのありように気づきつづけている状態をいいます。
大脳が発達し、社会的に教育されて育った人間は、なにかしていても心ここにあらずでほかのことをかんがえうていたり、自分のありようにまったく注意が向いていなかったりすることがほとんどです。
いまこの瞬間、ここでこれをしているのに、こころはここになく、おこなっていることもうわのそら、ただ手癖や訓練で獲得した手順にしたがってなぞっているだけ、ということが多いのです。

マインドフルの練習(77)
いつもやりなれたことを、あえて「まるで初めておこなうこと」みたいな気持ちで取りくんでみましょう。
たとえば、靴をはく、という動作。
あなたは靴を右からはくでしょうか、左からはくでしょうか。
まずそこのところからはじめて、靴に足をすべりこませる手順、感触を確認しながら、靴に足をなじませ、立ちあがって歩きはじめるまでを、まるで初めてやることのように新鮮に感じながらやってみてください。

2014年3月16日日曜日

マインドフルな3月16日

いろいろなことに謙虚になろうとして、たとえば相手のいうことをよく聞こうとする姿勢をこころがけたとき、急に相手がこちらにたいして尊大な態度をとっているように感じてしまうことがあります。
たとえばやたらとアドバイスしたがっているように感じたり、こちらを評価したり判断したり、ときには非難しているように聞こえてしまう、といったことが起こることがあります。
人は聞く耳を持っている相手に、なにか役に立ちたいという思いから、ついついそのような態度をとってしまいがちです。
そういうとき、相手を遠ざけるのではなく、相手のニーズに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

マインドフルの練習(76)
自分の指が動くようすをしっかり見てみましょう。
右手をひらいて、目の前にかざします。
「一、二、三……」と親指から順番に折っていき、そのようすをしっかりと観察してみます。
自分の指が動くようすをじっくり観察したことなどあまりないかもしれませんね。
小指の「五」まで折ったら、今度は小指を立てて「六」、薬指を立てて「七」とつづけます。
右手が終わったら、左手も観察してみましょう。

2014年3月14日金曜日

マインドフルな3月15日

特定の国籍とか民族とか人種を相手に「ヘイトメッセージ」をくりかえす人々のことが問題になっています。
自分(たち)と特定の他集団を区別し、差別し、排除しようという心理のもとには「恐怖」があります。
自分とおなじことば、かんがえかた、習慣、規則を共有している人のなかにいるときは安心していられるけれど、自分とことなったことば、生活習慣、価値観を持った人々がそこにやってくると恐怖をおぼえ、パニックを起こしてしまう、という心情は、理解できないわけではありません。
しかし、「自分とおなじ」ということそのものがそもそも幻想であるかもしれないという謙虚さを持ち、自分の外にたいする恐れ・恐怖・不安と勇気をもってむかいあうことが、「いまここ」を誠実に生きるためには必要なのです。

マインドフルの練習(75)
自分が聴きとれない外国語を聞いたり、理解できない他人の行動や価値観に接したとき、自分のこころのなかに立ちあがってくるとまどいや恐怖、恐れ、不安といったものにきちんと目をむけてみましょう。
自分の呼吸を思いだし、身体全体を意識して、不安につつまれている自分の状態をまず受けいれます。
その不安が、「自分の理解できないこと」「予測できないこと」「安全をおびやかされること」あるいはほかの原因もあるかもしれません、そういったものからやってきていることを、目をそむけることなくきちんと見てみます。
そのとき、身体全体のようすはどのように変わりますか? それとも変わりませんか?

マインドフルな3月14日

雨が降ったら雨の音に耳をすませてみましょう。
雨は持続的な音がずっと聴こえるような気がしますが、よく聴くとどの瞬間もおなじ音はありません。
たえず変化していて、一瞬としておなじ音は聴こえないはずです。
雨の量や風の具合などさまざまな要因でたえず変化しているのです。
雨にかぎらず、風や波、川の流れなど自然の音はすべて変化しつづけるもので、私たちの身体もまたおなじです。
音こそ聴こえませんが、たえず変化している身体からの声に耳をすませてみるとおもしろいものが見えてきます。

マインドフルの練習(74)
雨が降っているとき、窓際に立ち、窓をすこしあけてみます。
外の雨の音がじかに聴こえてきますね。
その音に耳をすませてみます。
立っている自分の身体の状態や呼吸にも注意を向けたまま、雨の音をただ聴いてみましょう。
不規則に変化しつづける雨の音と、自分の身体の変化が、どのように呼応しあっているのか、あるいはそれぞれ異なったリズムをかなでているのか、観察してみましょう。

2014年3月13日木曜日

マインドフルな3月13日

人はなにかを見たとき、本当に見たのではなく「見た気になっている」だけのことがよくあります。
たとえば梅の花を見たとき、「あ、梅の花だ」というかんがえが頭のなかに浮かんできて、そのかんがえに頭を占有されてしまって梅の花そのものはもう見ていない、という事態がしばしば起こります。
頭のなかに浮かんだ「梅の花だ」というかんがえや、「梅の花はこんな感じ」というイメージは、実際にそこにある梅の花の実態とはかけはなれていることがあります。
本当に「いまここ」にある梅の花を見るとはどういうことなのか。
マインドフルになにかを見るということがどういうことなのか、いま一度検証してみましょう。

マインドフルの練習(73)
梅の花でもなんでもいいんですが、花が身近にあればマインドフルに観察してみましょう。
「梅の花だ」というかんがえが浮かんだら、それをいったん捨て、「これは梅の花だけどどんなふうになっているんだろう」と純粋に好奇心を向けてみます。
花びらは何枚? 色は単一? それとも何色かまじっている? おしべは何本? 花粉の色は? めしべはどんな形? ガクの形はどうなっている? 茎はどのようについている? においは?
思いがけずたくさんの発見があるかもしれませんね。

2014年3月12日水曜日

マインドフルな3月12日

自分の身体はいつもいろんなことを教えてくれています。
しかしやっかいなことに、身体の教えはことばではなく、無言の微細な信号なので、それをキャッチするにはこちらも繊細な感受性が必要になります。
まだ文明が発達していない自然環境のなかで日々生きのびるための戦いをしていたころのヒトは、おそらく自分の身体の信号をつねにキャッチし、生命力を使いきって生きていたことでしょう。
しかし便利な道具や安全な環境に慣れきった現代人は、まったく自分の身体の声を聞くことができなくなってしまっています。
マインドフルネスは自分の身体の声、生命の信号を聴くことでもあります。

マインドフルの練習(72)
自分の身体をながめてみましょう。
呼吸や、指先などの末端の感覚、そして身体全体のありよう、これらにまんべんなく注意を向けてみます。
といっても、いきなりはなかなかむずかしいものです。
草原に立っている一本の木をながめるように、自分をながめてみましょう。
風に吹かれて葉や幹が揺れるさまをながめるように、自分をながめてみます。
葉や幹がざわざわと音を立てるのを聴くように、自分の身体の声を聴いてみます。

2014年3月11日火曜日

マインドフルな3月11日

2011年3月11日以降、多くの人が羽根木の家にやってきました。
いずれも東北の被災地ほどではないにせよ、大きな揺れを経験したり、帰宅難民になったり、知人や親族になかなか連絡が取れず安否の心配をしたり、あるいはふたたび大きな地震や津波や原発事故が起こるのではないかと不安にさいなまれて、不眠や体調不良を感じる人ばかりでした。
医師や臨床心理士の方たちと協力して、強い不安をおぼえて日常生活がままならない人たちにどうすればいいのかマニュアルを作ったり、音読療法によるマインドフルネスのワークを実践したりしたことが、いまの音読療法の体系作りにつながり、またその有効性を実証することにつながっています。

マインドフルの練習(71)
テレビなどで311の地震や津波の映像を偶然見てしまうことがあります。
そのたびに動悸が激しくなったり、息苦しくなったり、当時の怖い思いを再現してしまって不安にかられてしまうこともあります。
そういうときこそ、マインドルネスを心がけてみましょう。
「いまここ」の自分自身につながります。
ゆったりと呼吸をし、その呼吸を観察し、「いまここ」の自分自身のありようをしっかりと見つめます。
どうでしょう、「いまここ」の自分自身になにか問題はありますか?

2014年3月10日月曜日

マインドフルな3月10日

猫や子どもを見ていると、ただ純粋に自分のニーズ(必要性)を満たそうとして、瞬間瞬間行動していることがわかります。
自分にとって必要なこと(お腹がすいた、トイレ行きたい、自由に遊びたい、など)を純粋に追求し、逆にやりたくないことや押しつけられたことには強く抵抗します。
それを「社会性がない」と規定してなんとか思いどおりにさせようとしたり従わせようとするのは、大人の身勝手な論理です。
いま一度、自分の純粋なニーズに向かいあい、社会的なしがらみとは別のところにある自分自身のありようを見つめなおしてみてはいかがでしょう。

マインドフルの練習(70)
道を歩いていると猫に出会うことがあります。
飼い猫がたまたま外に出ていたり、あるいはそのあたりを縄張りにしている野良猫だったりします。
いずれにしても、猫はつねにマインドフルな存在です。
「いまここ」の自分のニーズを満たすことを純粋に遂行しようとしています。
彼らと出会ったとき、こちらも「いまここ」の純粋な存在になってみましょう。
立ち止まり、猫のマインドフルを鏡のように写しとり、いっしょに「いまここ」だけを感じてみましょう。

2014年3月9日日曜日

マインドフルな3月9日

なんとなしに理由もなくイライラした気分になるときはありませんか?
イライラの感情にきちんと向かい合ってみましょう。
イライラの奥には軽い怒りの感情があったりします。
自分は悪くないのに、他人のせいでうまくいかないことがある、自分がやろうとしていたことが人のせいで邪魔されているように感じている……
ものごとがうまくいかないことの原因を自分の外側に設定しようとしてしまうのは、自分自身を守りたいという心理のなせるわざです。
そのとき自分がなにを大切にしようとしているのか、こころの奥をきちんとのぞきこんでみる必要があります。

マインドフルの練習(69)
女性はそうでもないでしょうが、男性は私もそうですが鏡に向かう習慣がない人が多くいます。
しかし、たまにはしっかりと鏡に向かって自分の顔を観察してみましょう。
日頃鏡に向かう習慣がある人も、「意識的に」鏡に向かってみましょう。
眉の形はどうなっているのか、額や眉間や目尻の皺はどうなのか、瞳の色はどうなのか、唇の形状や状態はどうなのか。
観察を始めてみると、じつにさまざまなことに気づくと思います。
気づいたことが「いい/悪い」ではなく、自分の現在のありようをそのまま受け入れてみます。

2014年3月8日土曜日

マインドフルな3月8日

人間の身体と脳はいわば「超平行処理コンピューター」のようなもので、複雑な処理を同時にこなすことができます。
自転車に乗りながら鼻歌を歌ったり、だれかと話をしたり、かんがえごとをしたり。
自転車に乗ること自体、大変な情報や運動の処理を並行しておこなっているわけです。
これらは脳の「大脳皮質」以外の大部分でほとんど無意識におこなっていますが、これらの高性能を阻害するのが大脳皮質でおこなわれている「思考」です。
そう、人が人であるがゆえの言語、論理、感情、記憶、想像といった脳の働きが、生き物として本来持っている優秀な処理能力をいちじるしく阻害してしまうのです。

マインドフルの練習(68)
なにかかんがえごとをしながら歩いているときと、自分自身とまわりのことに注意をはらい「いまここ」であることを意識しながら歩いているときとでは、どのように感じが変わるでしょうか。
自分自身の呼吸に気づき、自分の存在やまわりのことに意識を向けているとき、世界の見え方はちがっていることでしょう。
世界は立体的存在であり、においや音に満ちた有機的な空間であり、自分がそれらに濃密に包みこまれていまここを生きていることを実感するのは、マインドフルネスを実践できた瞬間です。

2014年3月7日金曜日

マインドフルな3月7日

なにごとかに「集中」するという状態にはいくつかのレベルがあります。
自分のやっていることに没頭してそのことだけに集中し、時間を忘れ、まわりの状況も気にならず、名前を呼ばれても気づかない……そのような状態はたしかにある種の「集中」であるといえるかもしれませんが、「執着」と呼ぶこともできます。
マインドフルネスがめざす集中の状態はこのような執着とはちがいます。
自分がやっていることに完全に集中していながらも、まわりの状況もくっきりと把握していて、すべてのことに気づきつづけている状態……これをスポーツの世界では「FLOW」と呼ぶこともあります。
このところよく聞く言葉かもしれませんね。

マインドフルの練習(67)
ラジオを聴きながら勉強するとか、テレビを見ながら食事するとか、「ながら」の習慣はとかく悪いこととされます。
しかし、「悪いこと」と決めつけて遠ざけずに、ときに意識的に「ながら」を試みてみましょう。
ラジオを聴きながら本を読んでみます。
ラジオで話している内容と自分が読んでいる本の内容の両方をしっかりと理解することはできますか?

2014年3月6日木曜日

マインドフルな3月6日

体調が悪いとなかなかマインドフルネスになりにくいものです。
マインドフルネスを心がけるには、ちょっとした気合いと集中が必要です。
体調不良のときはどうしても集中がつづきません。
こういうときはただ横になって、自分の呼吸と全身の感覚に目を向け、全身がゆったりと休まることを心がけます。
鎮静・休息と回復の神経系である副交感神経を働かせるように心がけると、身体は自然に調子のよい状態に向かってくれます。

マインドフルの練習(66)
就寝時、床にゆったりと横になり、呼吸を深くゆっくりと整えます。
呼吸が整ったら、お腹の上で左手首の動脈のある部分を右手の親指で押さえてみます。
心臓の鼓動を感じることができますか?
手首の関節の、ちょうど親指の付け根のあたりに、動脈が通っている場所があります。
脈拍をとらえたら、呼吸から意識を離さないまま、脈を数えてみましょう。
よけいなことはかんがえが、ただ数を数えるだけでいいのです。
自分の生命の動きを受け取ります。

2014年3月5日水曜日

マインドフルな3月5日

一日のはじめ、夜が白みはじめ、徐々に空が明るくなり、やがて日が出る時間帯までの世界の音に、耳をすませてみましょう。
まだ起きて活動している人がいる一方で、夜の休息を終え一日の活動を開始する人もいます。
道にはもう車が走りはじめています。
そんな人のいとなみとは別に、世界は昔からおなじように回転し、太陽とともに自然のリズムを作って動いています。
文明生活のなかで忘れてしまっている自然のリズムを、たまに夜明けに耳をすませることで感じてみるのはいかがでしょう。

マインドフルの練習(65)
朝、めざめたとき、まず最初にするべきことをかんがえる前に、なにもかんがえず、ほんのすこし時間を取って、ただ横たわったままでいましょう。
自分がやるべきことではなく、ただ自分のいまのありようにだけ注意を向けてみます。
ゆったりと呼吸し、新鮮な酸素を含んだ血液が全身のすみずみまで行きわたっていくようすを観察します。
今日一日、あたらしく始まる自分自身は、どんなようすで、どんな感じがしますか?

2014年3月4日火曜日

マインドフルな3月4日

眠れないとき、ついつい「早く眠らなければ」とあせりがちな気持ちになります。
しかし、眠りこんでしまわなくても、横になって安静にしているだけでも身体は回復します。
横になり、深くゆっくりとした呼吸を心がけることで、副交感神経を昂進させます。
鎮静と回復の神経である副交感神経は、それが働いているとき、睡眠状態になくても身体は回復モードにはいっているのです。
そのことを思って落ち着いて横になっているだけで安心でき、結果的に睡眠にはいっていけることもあります。

マインドフルの練習(64)
楽な姿勢で横になり、深い呼吸を心がけてみましょう。
みぞおちのあたりにゴム風船が一個あると想像し、そこに空気を入れたり出したりしてみます。
お腹がゆっくりと上下するさまを観察します。
そのとき、身体全体にどのような落ち着きがもたらされるか、指先の感覚まで注意して見てみましょう。
そのまま睡眠がやってくるかもしれませんが、それはそれでかまいません。

2014年3月3日月曜日

マインドフルな3月3日

人類はその思考能力のおかげで、こんにちの巨大な文明社会/物質的繁栄を築きあげました。
一方、思考にがんじがらめになって見失ってしまっていることも少なくありません。
思考が邪魔をして、ありのままに感受する能力を眠らせてしまっています。
自分がいまここを生き、さまざまなことを感じ、刻一刻と変化している生命と対峙する感受性が、思考によってブロックされてしまっています。
便利で豊かな社会もいいですが、なにより私たち自身の存在の豊かさをしっかりと享受し、自分の人生を生ききることを心がけたいと思います。

マインドフルの練習(63)
歩いているとき、腕をまっすぐのばしてみます。
あいているほうの手の人差し指を、地面を指すようにピっとのばしてみます。
両方の手があいていたら両手の人差し指をのばします。
人差し指の先端に意識を集中してみます。
歩くにつれて人差し指の先端は空中を行ったり来たりします。
そのたびに空気に触れる感触が指先の先端を新鮮に包むでしょう。
ただその感触を観察します。

2014年3月2日日曜日

マインドフルな3月2日

梅が咲いているのを見ると、
「あ、梅が咲いている」
とかんがえます。
そういえば去年はもう少し咲くのが遅かったな、このところ毎年咲く時期が遅くて、梅祭り実行委員の人たちも苦労しているらしい、これも異常気象のせいかな、などなど、次から次へと連想が浮かび、思考が飛んでいきます。
そしてもはや梅そのものは見ていないのです。
これがマインドレスな人のこころの動きです。
人はこんなことを一日中やって生きています。

マインドフルの練習(62)
梅が咲いているのを見つけたら、近づいていって、よく観察してみましょう。
どんな匂いがしますか?
どんな色ですか?
どんな形ですか?
めしべやおしべはどんな色で、どんな形をしていますか?
梅の花の形状、存在そのものを丸ごと受け取って、しっかり味わってみましょう。
自分と梅の花が同化してしまいそうなほど、よくよく観察してみましよう。

2014年3月1日土曜日

マインドフルな3月1日

とくに意味のないものごとの羅列のなかにも、意味やパターンを見つけようとするのが人という生き物です。
たとえば完全な自然の産物である岩肌や森の陰のような場所に、人の顔のような形を見つけてこわがったりおそれたりします。
写真のなかにそういうものを見つけると心霊写真だといって騒いだりもします。
一度それが人の顔に見えてしまうと、あとはどうしたってそれが人の顔以外のものには見えなくなってしまいました。
それは一種、目をふさがれてしまったのと同様といっていいでしょう。
パターンを見つけ、それに執着してしまう魅力から逃れるのは、なかなか大変なことです。

マインドフルの練習(61)
電車に乗って、車輪と線路が立てる音に耳をすませてみます。
すぐに一定のパターンがあることに気づきます。
リズミカルなパターンは容易に予測がつき、なぞることができます。
しかし、より注意深く耳をすませていると、一定だと思っていたパターンも、じつはひとつひとつの音がそれぞれすこしずつ違っていることに気づくでしょう。
どれひとつとしておなじ音はないのです。
そのことによく注意を向けてみましょう。