2012年7月31日火曜日

7月31日

◎今日のテキスト

 なぎさふりかへる我が足跡も無く

 炎天の底の蟻等ばかりの世となり

 蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る

 ——尾崎放哉

◎毎日コツコツとなにかやること

 芸術にしろ、事業にしろ、学問にしろ、なにごとかをなしとげた人のことを、世間一般では「才能があった」と片付けてしまいがちだが、そんなことはないことは世間一般の人でもわかっている。
 仮に才能があったとしても、その才能を結実させるには不断の努力が必要であることはだれもが知っている。エジソンの言葉を引用するまでもなく。
 毎日、少しでもいいから、コツコツとなにか同じことをやりつづけること。それこそが才能ではないかと思うことがある。
 私も毎日、この「日めくり」を書きつづけているが、ときにめげそうになり、そんなときは自分に才能がないと痛感しつつも、がんばって続けることでひょっとしてない才能を創出することすらできるのかもしれないと思って、今日もまたただ無心に書きつづけるのみである。

2012年7月30日月曜日

7月30日

◎今日のテキスト

 最近は、政治的に行きつまり、経済的にも、また行きつまっている様な気がする。その反映は文芸の上にも現われていないことはない。だが、この時にこそ、文芸は、展開せられるのでもある。我々は、常に、思想の自由を有している。空想し、想像することの自由を有している。外的関係が、心までを萎縮するとはかぎらない。
 現実の上に、真美の王国を築くことのできないものはこれを常に心の上で築くことである。芸術は、即ち、その表現である。恍洋たるロマンチシズムの世界には、何人も、強制を布くことを許さぬ。こゝでは、自由と美と正義が凱歌《がいか》を奏している。我等は、文芸に於てこそ、最も自由なるのではないか。誰か、文芸は、政治に従属しなければならぬという?
 ——小川未明「自由なる空想」より

◎人の耳は人の声を聞くようにできている

 人の聴覚は20Hzから20000Hz程度の周波数帯を聴き取れるような能力があるといわれている。
 実際にはもっとずっと狭いようだが。
 人の声はさらにもっと狭い300Hzから700Hzくらいの音域だ。
 人はそのあたりの音域や、人の声の音質を「心地よい」と感じるようになっている。
 それは、赤ん坊が言語を学習するためにどうしても必要なことなのだ。
 赤ん坊はお母さんの声をはじめ、人の声がここちよいので、懸命に耳を傾ける。
 その結果、言葉を覚えることができる。
 声以外の周波数帯の音も聞こえる構造になっているのは、自然界に存在するさまざまな音——たとえば危険を察知するための音、雷や動物の鳴き声など——を聞き分ける必要があるからだ。

2012年7月29日日曜日

7月29日

◎今日のテキスト

 年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾《はず》んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一人だけ残ってぶらぶらしているのがこの際妙に不審に思えた。しかも加奈江が二、三歩階段に近づいたとき、その社員は加奈江の前に駆けて来て、いきなり彼女の左の頬に平手打ちを食わした。
 あっ! 加奈江は仰反《のけぞ》ったまま右へよろめいた。同僚の明子も磯子も余り咄嗟《とっさ》の出来事に眼をむいて、その光景をまざまざ見詰めているに過ぎなかった。瞬間、男は外套《がいとう》の裾《すそ》を女達の前に飜《ひるがえ》して階段を駆け降りて行った。
 ——岡本かの子「越年」より

◎便秘解消のための呼吸法

 音読療法でもちいる「吐く」呼吸に意識を向けた呼吸法は、副交感神経を優位にし、消化器系の運動をうながす。
 したがって、便秘の解消に効果があるのだが、よりはっきりと便秘を解消させたいという人は、さらにストレッチを加えるとよい。
 とくに効果があるのは、体幹をひねるストレッチだ。
 椅子に座ってでもいいし、立ったままでもいいが、両腕を頭の後ろに組んで、ゆっくりと身体をひねっていく。自分の真後ろを見る要領だ。そのとき、身体の動きにあわせて息を吐ききっていく。
 これを左右何度か繰り返すと、お腹のなかが動き出すのがわかるだろう。

2012年7月28日土曜日

7月28日

◎今日のテキスト

 私がどんなに質屋の世話になつたかといふ事は、これまで、小説に、随筆に、既にしばしば書いたことである。だが、私だとても、あの暖簾を単独でくぐるやうになる迄には、余程の決心を要した。私が友人を介して質屋の世話になり始めてから、友人なしに私一人でそこの敷居をまたぐやうになつた迄には、少なくとも二年の月日がかかつた。
 それは私が二十四歳の秋の末のことであつた。その秋の初の頃、私の出世を待ち兼ねて、私の母が長い間居候をしてゐた大和の知合の家に別れを告げて私を便つて上京して来たのであるが、当時私はただ一文の収入の方法も知らなかつたのであるが、仕様がないので、取敢ず本郷区西片町に小さな借家を見つけて、母と二人で暮しはじめた。さうして私は中学校の国語、漢文、英語等の教科書の註釈本の仕事をしてゐる人に頼んで、その下仕事をさしてもらふやうになつた事まではよかつたのであるが、幾ら私が精出しても、その人が報酬をくれないのである。
 ——宇野浩二「質屋の小僧」より

◎海を見る

「海派」「山派」などと、どちらが好きかで区別することがあるが、それで無理にいえば、私は海派だ。
 生まれは北陸の山間部で、海からは遠い地域だった。が、子どものころは家族でよく海に遊びに行った。
 山を抜けて海が見えると、私を含む子どもたちはいっせいに歓声をあげたものだ。
なぜ海をみると人は「わあー」といいたくなるのだろう。そしていつしか、大人になると、その感動を忘れがちになる。
 時々むしょうに海を見たくなる。そして自分が日本という海に囲まれた狭い国土の国に生まれたことを感謝する。

2012年7月27日金曜日

7月27日

◎今日のテキスト

 時こそ今は水枝《みづえ》さす、こぬれに花の顫《ふる》ふころ。
 花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
 匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦《う》みたる眩暈《くるめき》よ。

 花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
 痍《きず》に悩める胸もどき、ヴィオロン楽《がく》の清掻《すががき》や、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈《くるめき》よ、
 神輿《みこし》の台をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ。
 ——上田敏『海潮音』のシャルル・ボドレエル「薄暮の曲」より

◎夜は千の目を持つ

 これはジャズでよく演奏されるスタンダードナンバーとしても有名ですが、もともとは古いサスペンス映画の題名であり、元は小説である。原題は「The Night Has A Thousand Eyes」。
 夜闇にまぎれて悪いことをしようとしても、千の目が見ているよ、といった、日本の故事でいえば「壁に耳あり、障子に目あり」みたいなニュアンスの成句らしいが、この言葉にはつづきがある。「昼はただひとつ」という。
 私は少年時代をSF小説にどっぷりつかってすごしたSFファンなので、映画や音楽よりも、むしろ宇宙をイメージしてしまう。
 もうすぐペルセウス座流星群の時期がやってくる。星を見て「いまここ」を意識するのはわくわくする体験だ。

2012年7月26日木曜日

7月26日

◎今日のテキスト

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

 からまつの林を出《い》でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。

 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨《きりさめ》のかかる道なり。
 山風《やまかぜ》のかよふ道なり。
 ——北原白秋『水墨集』「落葉松」より

◎身体の不具合にきちんと気づく

 自分の身体のことは自分が一番よく知っている、という人がいるが、その言葉ほど偽りに満ちたものはない。真実は、自分の身体のことは自分が一番わからない、ということだ。
 とくに現代人は自分の身体の状態を無視する訓練を受けている。これは軍隊の教練以来の歴史だと思うのだが(ただし私は経験がありません)、どこかが痛くても、疲れていても、だるくても、なかったことにして目の前の用事をがんばってこなそうとする。疲れていることを無視して働きつづけたり、勉強をつづけたりする。
 そのうちそれがツケとしてたまって、ドッとシッベ返しをくらったときにはもう取り返しのつかないことになっている。
 自分の身体の声に耳をすませてみよう。どこか無理をしていないか。不具合はないか。かすかな悲鳴が聞こえはしないか。
 いつも身体を大切に扱ってやっていれば、いざというとき期待にこたえてくれるものだ。

2012年7月25日水曜日

7月25日

◎今日のテキスト

 自分の信ずる事の出来る唯一のものは、やはり自分自身より他にはありません。自分以外の本当に唯一な人と思う人さえ本当にはいっしょに融け合う事はむずかしいのです。
 自分の本当の心持――それもなかなか他人には充分に話せるものではありません。どれほど上手に話しても、どれほど多くの言葉を費しても、話すほど損をしたような気持になる事があります。
 ——伊藤野枝「成長が生んだ私の恋愛破綻」より

◎あがり性について

 ひと前に出るとあがってしまって、自分のことをうまく伝えられなったり、口ごもったり、練習してきたはずのことができなくなってしまったりする人が、かなりの割合でいる。
 私のところにもそういう悩みを持った方が一定の割合でおとずれる。
 「あがる」という現象がなぜ起こるかというと、自分が人からどう見られているか、そのことを気にするあまり、うまくできるだろうか、うまくいかなかったらどうしよう、と精神的に緊張し、そのことが身体的パフォーマンスをいちじるしく低下させるからだ。
 自分の外側ばかり気にするのではなく、自分の内側をまず見て、「なぜそれをしようとしているのか」「自分はなにをしたいのか」という動機やニーズに強く結びつくことで、外部から評価されることを気にしないでいられるようになる。

2012年7月24日火曜日

7月24日

◎今日のテキスト

 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師《えし》たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某《それ》の日東京府下の一《ある》病院において、渠《かれ》が刀《とう》を下すべき、貴船《きふね》伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
 ——泉鏡花「外科室」より

◎ひと見知りという性質

 ひと見知りをするというのは、普通は子どもについていうことだが、大人でも平気で「自分はひと見知りなので」というようなことをいう人がいる。
 ひと見知りというのは、見知らぬ人にたいしてうまくものがいえなかったり、恥ずかしさを覚えたり、つまり平常心を失ってしまう状態をいうのだと思う。
 この原因はひとつしかなくて、子どもの場合も大人の場合も「人に自分がどのように思われるか」という外部評価のついての予断を持ってしまうからだ。子どもの場合は「自我」のめざめによってそれが起こるのだが、大人の場合はそれとは事情がことなる。
 大人の「ひと見知り」は、自我の扱いがうまく折り合っていないことから来る。自我にたいして過剰であったり、逆に過小であったり、いずれもマインドフルネスによる「いまここ」の等身大の自分自身についての意識が得られていないことが、その要因になっているようだ。

2012年7月23日月曜日

7月23日

◎今日のテキスト

 冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残っており、村端《むらはずれ》の溝に芹《せり》の葉一片《ひとつ》青《あお》んではいないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消《ゆきげ》の路の泥濘《ぬかるみ》の処々乾きかかった上を、春めいた風が薄ら温かく吹いていた。それは明治四十年四月一日のことであった。
 新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健《ちはやたけし》は、平生より少し早目に出勤した。白墨《チョオク》の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリクリした三分刈の頭に帽子も冠らず――渠《かれ》は帽子も有《も》つていなかった。――亭乎《すらり》とした体を真直《まっすぐ》にして玄関から上って行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方《かなたこなた》から駆けて来て、敬《うやうや》しく渠を迎へる。
 ——石川啄木「足跡」より

◎自分のなかの子供性

 子供のころは自由奔放にふるまっていてもある程度許されたことが(突然走り回る/歌いだす/大騒ぎする)、大人になるにつれ「それはいけません」と抑制され、またみずからも抑制することを覚えていく。
 しかし、内的欲求としては、大人になってからも常に子供のようなふるまい(自由表現)を持ちつづけていることはまちがいない。それを強制的に抑えつづけていたり、制御できないままでいると、心の病を引き起こす。
 表現欲求は、表現によって解消できる。だから、表現セラピーは有効なのだ。音読療法も表現セラピーの側面を持っており、自分なかの子供性をないがしろにしないことに有効だ。

2012年7月22日日曜日

7月22日

◎今日のテキスト

 羅馬《ロオマ》に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做《な》したる、美しき噴井《ふんせい》ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの廣こうぢのさまをば銅板畫にて見つることあらむ。かゝる畫にはヰア、フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三條の樋《ひ》の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常《よのつね》ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。
 ——ハンス・クリスチアン・アンデルセン『即興詩人』(訳・森鴎外)より

◎沈黙の質

 人が会話しているとき、あるいは朗読しているとき、音楽を演奏しているとき、ときに音や言葉のない瞬間がおとずれることがある。ときにそれは気まずかったり、なにか言わなければとあせったり、緊張に満ちていたり、あるいは安らかであったりと、ひとことで沈黙といってもさまざまな質がある。
 私はここ数年、「沈黙の朗読」という試みをつづけている。朗読は「言葉」のほうに注意が向けられることが多いが、そうではなく言葉と言葉のあいだにある沈黙のほうに着目し、その質を追求しようという試みだ。
 大変おもしろい成果が得られつつある。

2012年7月21日土曜日

7月21日

◎今日のテキスト

 私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。と同時にどれほど苦しい事だったろう。私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火を燻《いぶ》らそうとする塵芥《ちりあくた》の堆積《たいせき》はまたひどいものだった。かきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。
 ——有島武郎『生まれいずる悩み』より

◎朗読を音楽のように聴いてもらえないか

 朗読をストーリーを追うだけの聴き方ではなく、音楽がそうであるように、朗読者=演奏者がその物語=曲目をどのように読んでいるのか=演奏しているのか、というふうには聴けないものだろうか。
 朗読者からオーディエンスには、テキスト情報=ストーリーだけではなく、それがどのように読まれているのか、どんな声音なのか、朗読者の感情や身体性はどうなのか、といった膨大な情報が伝わっている。その部分に着目して朗読表現という行為をかんがえなければ、朗読の本質が理解できないのではないかと思っている。

2012年7月20日金曜日

7月20日

◎今日のテキスト

 友人と共に夕食後の散歩から帰って来たのは丁度七時前であった。夏の初めにありがちのいやに蒸し暑い風の無い重々しい気の耐えがたいまで身に迫って来る日で、室《へや》に入って洋燈《ランプ》を点けるのも懶《ものう》いので、暫くは戲談口《じょうだんぐち》などきき合いながら、黄昏《たそがれ》の微光の漂って居る室の中に、長々と寢転んでいた。
 ——若山牧水「一家」より

◎朗読者は物語の従者ではない

 朗読が始まると、聴衆はたいてい、その物語の筋を追おうとします。そして、その物語を読んでいる主人公であるはずの朗読者の存在を忘れてしまいます。私はそのことをとても残念に感じています。
 物語を追おうとする態度は、教育によってもたらされたと私はかんがえています。ストーリーを理解する、文章の意味を理解する、作者の意図を理解する。学校教育では繰り返しそのようなことを訓練されます。しかし、そのことが朗読者と聴衆のコミュニケーションを著しく阻害しているのです。
 朗読表現の現場においては、もっと違う聴き方があってもいいのではないかと私は考えています。

2012年7月19日木曜日

7月19日

◎今日のテキスト

 町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。王子の像は全体を薄い純金で覆われ、目は二つの輝くサファイアで、王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。
 王子は皆の自慢でした。「風見鶏と同じくらいに美しい」と、芸術的なセンスがあるという評判を得たがっている一人の市会議員が言いました。「もっとも風見鶏ほど便利じゃないがね」と付け加えて言いました。これは夢想家だと思われないように、と心配したからです。実際には彼は夢想家なんかじゃなかったのですが。
 ——オスカー・ワイルド「幸福の王子」(訳・結城浩)より

◎知っている話、知らない話

 朗読者が有名な、たとえば芥川龍之介の「羅生門」のような話を朗読しはじめると、オーディエンスはたいてい、「あ、この話、知ってる」とうれしい気分になります。そして自分が読んで記憶しているストーリーに照らしあわせて、自分の記憶がまちがいないことを確認して喜んだり、あるいは記憶から飛んでしまっている部分を見つけて驚いたりします。
 知らない話が始まったときは、「これはどういう話なんだろう」とその筋や情景を追いかけはじめます。
 いずれにしても、朗読者が「どのように」読んでいるのか、彼は「どんな人なのか」ということにはなかなか意識は向かないのです(無意識的には違います)。

2012年7月18日水曜日

7月18日

◎今日のテキスト

 空気は我らの周りに重い。旧い西欧は、毒された重苦しい雰囲気の中で麻痺する。偉大さの無い物質主義が人々の考えにのしかかり、諸政府と諸個人との行為を束縛する。世界が、その分別臭くてさもしい利己主義に浸って窒息して死にかかっている。世界の息がつまる。――もう一度窓を開けよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか。
 ——ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』(訳・片山敏彦)より

◎伝達と表現

 時々、いや、しばしば、私のところに朗読を学びたいといってやってくる人のなかで、「自分が好きな作品のすばらしさを人に伝えたくて」朗読をやりたいという人がいる。
 感銘を受けた文章や文学作品に接したとき、だれもがそのことを伝えたいと思う。だったら、その本を渡せばいいのではないか。
 感銘を受けた作品を「だれかに朗読したい」と思ったとき、すでにその動機のなかには「自分を伝えたい」という要素がはいっている。自分がその作品をいかに読んだのか、いかに読むのか、自分の声を使ってどう表現するのか。
 なにか作品を「朗読したい」と思ったとき、それはすでに作品の「伝達」ではなく、自分を「表現」する欲求に突き動かされていることに気づいていない人が多いのには驚く。

2012年7月17日火曜日

7月17日

◎今日のテキスト

 わたしは阿Q《あキュー》の正伝を作ろうとしたのは一年や二年のことではなかった。けれども作ろうとしながらまた考えなおした。これを見てもわたしは立言の人でないことが分る。従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えらる。つまり誰某《たれそれ》は誰某に靠《よ》って伝えられるのであるから、次第にハッキリしなくなってくる。そうして阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
 ——魯迅『阿Q正伝』より

◎語りと謡い

 徳島で現代朗読のワークショップをおこなってきた。
 主催と案内をしてくれたメンバーのたるとさんが、ワークショップの翌日、阿波人形浄瑠璃の十郎兵衛屋敷に案内してくれた。ここでは大阪の文楽とはやや趣をことなえる阿波の人形浄瑠璃を上演していた。
 文楽におけるいわゆる義太夫語りと三味線がふたり。語りの人はセリフを語り、そして地の文である説明文も語る。これは朗読とおなじだと思った。
 ただ、現代の朗読と違うのは、語りの人は地の文やセリフをさらに節回し(メロディ)をつけ、三味線とアンサンブルになるということだ。
 これがおもしろかった。
 朗読と音楽の境界線はどこにあるのだろうかと思いながら聴いていた。あるいは、朗読と音楽に境界をもうける必要があるのだろうか、とも。

2012年7月16日月曜日

7月16日

◎今日のテキスト

 家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響かせて来る。城砦のような厚い石の欄壁に肘をついて、さきから河の水面を見降ろしていた久慈は石の冷たさに手首に鳥肌が立って来た。
 下の水際の敷石の間から草が萌え出し、流れに揺れている細い杭の周囲にはコルクの栓が密集して浮いている。
 ——横光利一『旅愁』より

◎音楽療法と音読療法

 これは一見、似た部分があるし、実際におこなっている場面では重複することがある。そのために、一部の施設では「うちはすでに音楽療法をやってますから」と、音読療法の実施を断られることがある。
 そういうとき、音読療法の特徴をうまく伝えられなかったことの残念さを感じる。
 音読療法はなにも道具がいらず、いつでもどこでも、自分の呼吸と声、身体を使ってやれる方法だ。身につけてしまえば、療法士の手助けもいらない。
 そしてさらなる大きな特徴は、療法のそれぞれの部分がユニット化していて、クライアントの状況に応じて即興的に進行プラグラムを変えていけることだ。
 音読療法協会では、それぞれの療法士の個性や特徴を生かしたオリジナリティを尊重し、即興的にプログラムを進行していけるような指導を行なっている。

2012年7月15日日曜日

7月15日

◎今日のテキスト

 どこかの公園のベンチである。
 眼の前には一条の噴水が、夕暮の青空高く高くあがっては落ち、あがっては落ちしている。
 その噴水の音を聞きながら、私は二三枚の夕刊を拡げ散らしている。そうして、どの新聞を見ても、私が探している記事が見当らないことがわかると、私はニッタリと冷笑しながら、ゴシャゴシャに重ねて押し丸めた。
 私が探している記事というのは今から一箇月ばかり前、郊外の或る空家の中で、私に絞め殺された可哀相な下町娘の死体に関する報道であった。
 ——夢野久作「縊死体」より

◎徳島で現代朗読

 今日はこれから四国の徳島に飛んで、午後、現代朗読のワークショップをおこなう。
 現代朗読協会の仲間に徳島在住のたるとさんがいて、もう何年もの付き合いになる。ところが、実は彼女とは実際に一度も会ったことがないのだ。スカイプとかグーグルプラスのハングアウトといったものを利用して、ネットでいつも交流していた。
 それが今回、ようやくリアルに会えることになった。たるとさんが徳島の仲間を集めてくれて、私と現代朗読協会の東京の仲間が数人、現地にうかがって、いっしょにワークショップを開催することが実現したのだ。
 こんなにうれしいことはない。

2012年7月14日土曜日

7月14日

◎今日のテキスト

 あかんぼを寢かしつける
 子守唄
 やわらかく細くかなしく
 それを歌っている自分も
 ほんとに何時《いつ》かあかんぼとなり
 ランプも火鉢も
 急須も茶碗も
 ぼんぼん時計も睡くなる
 ——山村暮鳥『風は草木にささやいた』より「夜の歌」

◎天ぷらでマインドフル

 私は料理が好きで本を書いたことがあるほどだが、このところしばらく、さぼっていた。
 今日はひさしぶりに天ぷらを作ってみた。
 材料はズッキーニ。変わった食材だとチャレンジ精神が発露される。
 とはいえ、天ぷらの原理はおなじで、高温の油に接した材料の表面部分とそれを覆っている衣から水分が飛び、外側はカリッと、内側は火が通っているものの素材本来のジューシーな状態が保たれている、という状態で仕上がるのが理想だ。
 揚げ物をすると、熱した油に最初に材料を投入し、盛大にバチバチと油が踊る状態が、しだいに落ち着いていってこんがりとなり、最後は音と香りが変わってフィニッシュとなる、その過程が楽しい。
 一瞬たりとも気を抜けない、ある意味、マインドフルネスを保った状態での調理といえる。そこにはなんの憂いもない。

2012年7月13日金曜日

7月13日

◎今日のテキスト

 無学ではあり貧しくはあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ、何を信ずるかをさへ、充分に言ひ現せない。併しその素朴な言葉の中に、驚くべき彼の体験が閃いてゐる。手には之とて持物はない。だが信仰の真髄だけは握り得てゐるのだ。彼が捕へずとも神が彼に握らせてゐる。それ故彼には動かない力がある。
 私は同じやうなことを、今眺めてゐる一枚の皿に就いても云ふことが出来る。それは貧しい「下手《げて》」と蔑まれる品物に過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も唱へるやうに、彼は何度も何度も同じ轆轤の上で同じ形を廻してゐるのだ。さうして同じ模様を描き、同じ釉《くすり》掛けを繰返してゐる。
 ——柳宗悦「雑器の美」より

◎全身で感じる

 たとえば耳が聴こえない人がいたとき、音楽や朗読を楽しんでもらえない、と思いこんでしまう。
 そんなことはない。彼は耳は聴こえないけれど、ほかの感覚はすばらしく生きている。むしろ耳が聴こえる者よりずっと、いろいろなことを受け取っている。
 逆に耳が聴こえる人は、音楽を聴くとき、音しか受け取っていないことが多い。音楽のなかには音以外のたくさんのことがこめられているのに。
 音楽にせよ、表現にせよ、あるいはただだれかと会って話をしたり、その場にたたずんだりしているにせよ、ときに自分の全体を使って受け取ってみたい。

2012年7月12日木曜日

7月12日

◎今日のテキスト

 夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣の衿をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。
 ——矢田津世子「神楽坂」より

◎全身で味わう

 たとえば料理を食べるとき、私たちはなにを味わっているのだろうか。
 味? 香り? 食感? 見た目? 食材? 器? 値段?
 そういったもの以外にも、私たちは多くの情報を受け取って食事している。そこにいる人、まわりの空気や物音。
 食べるという行為においても、一瞬一瞬を大切にし、受け取って、感謝し、自身の生・存在を味わいたい。味わうという行為を通じて、人生そのものを味わうことができる。

2012年7月11日水曜日

7月11日

◎今日のテキスト

 草をむしれば
 あたりが かるくなってくる
 わたしが
 草をむしっているだけになってくる
 ——八木重吉『貧しき信徒』より「草をむしる」

◎全身で見る

 たとえば絵を見るとき、私たちはなにを見ているのだろうか。
 そこに描かれているのはなにか。はっきりとわかるモノなら、それを見るだろう。ああ、ひまわりが描かれているな、とか、山と湖の風景だな、とか、ふくよかな女性だな、とか。
 それで絵を見たことになるだろうか。つまり、絵描きはそのモノを人に見せたくて絵を描いたのだろうか。
 絵描きはそのモノを描くことによってなにを伝えようとしているのか。
 私たちはそこになにが描かれているのかではなく、どう描かれているのか、そこに描かれているものは私たちの感情や身体をどのように変化させるのか。それを大事にしながら、全身で受けとめることはできないものだろうか。

2012年7月10日火曜日

7月10日

◎今日のテキスト

 こどもが
 せっせっ せっせっ とあるく
 すこしきたならしくあるく
 そのくせ
 ときどきちらっとうつくしくなる
 ——八木重吉『貧しき信徒』より「美しくあるく」

◎全身で聴く

 たとえば音楽を聴くとき、私たちはなにを聴いているのだろうか。
 奇妙な質問だと思うかもしれない。私がいいたいのは、こういうことだ。私たちが音楽を聴くとき、ひょっとしてその一部しか聴いていないのではないか。たとえばそのメロディを聴いている。歌詞を聴いている。和声の進行を聴いている。リズムを聴いている。
 曲に合わせて歌ったり踊ったりしている人をよく見ると、もはや音楽を聴いてすらいないのではないか、と思うことがある。
 全身でそのまま受け入れて聴いてみることはできないだろうか。なんの解釈もしないで、身体全体がどのように反応するのか。
 音楽に限らず、あらゆる音をそのように受け入れて聴いてみることはできないだろうか。

2012年7月9日月曜日

7月9日

◎今日のテキスト

 高瀬舟《たかせぶね》は京都の高瀬川《たかせがわ》を上下《じょうげ》する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島《えんとう》を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷《ろうやしき》へ呼び出されて、そこで暇乞《いとまご》いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心《どうしん》で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人《にん》を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上《かみ》へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
 ——森鴎外「高瀬舟」より

◎猫背の人

 背中が丸くなって、いわゆる「猫背」の人がいる。その人たちに「腰は傷めていませんか?」と聞くと、たいていは傷めていないという。
 腰を傷めるのは、猫背ではなく、むしろピンと背すじを伸ばして背中を張っている人に多いようだ。
 しかし、猫背がいいのかというと、そういうわけではなく、猫背は脊椎を傷めにくいかもしれないが、腹部を圧迫する姿勢を常にとっていることになる。つまり、肺と横隔膜より下の部分をいつも圧迫していることで、呼吸が浅く、それによって容易に予想できるのは、自律神経の失調を招きやすいのではないか、ということだ。

2012年7月8日日曜日

7月8日

◎今日のテキスト

 陽子が見つけて貰った貸間は、ふき子の家から大通りへ出て、三町ばかり離れていた。どこの海浜にでも、そこが少し有名な場所なら必ずつきものの、船頭の古手が別荘番の傍《かたわら》部屋貸をする、その一つであった。
 従妹のふき子がその年は身体を損ね、冬じゅう鎌倉住居であった。二月の或る日、陽子は弟と見舞旁《かたがた》遊びに行った。停車場を出たばかりで、もうこの辺の空気が東京と違うのが感じられた。大きな石の一の鳥居、松並木、俥《くるま》のゴム輪が砂まじりの路を心持よく行った。いかにも鎌倉らしい町や海辺の情景が、冬で人が少いため、一種独特の明るい闊達《かったつ》さで陽子の心に映った。
 ——宮本百合子「明るい海浜」より

◎一日二食

 私はたいてい、一日に二食という生活だが、そういうとたいていは驚かれる。しかし、実際にはそう驚くにはあたらないと思うのだが。なぜなら、人類は全世界的に、産業革命が起こるまでは一日二食、あるいはそれ以下だったという事実があるからだ。
 日本においても江戸時代までは一日二食だったという検証が多くある。明治以降、西洋化が進み、労働時間が増大するにしたがって、一日三食が習慣化した、というより国家政策によってそれが推進されたようだ。
 現代人は労働時間こそ長いが、消費エネルギーはそう多くない。江戸時代の人よりむしろ少ないのではないだろうか。だから一日二食でも平気だし、実際私はそれで健康的に毎日すごしている。

2012年7月7日土曜日

7月7日

◎今日のテキスト

 四つのつめたい谷川が、カラコン山の氷河から出て、ごうごう白い泡《あわ》をはいて、プハラの国にはいるのでした。四つの川はプハラの町で集って一つの大きなしずかな川になりました。その川はふだんは水もすきとおり、淵《ふち》には雲や樹《き》の影《かげ》もうつるのでしたが、一ぺん洪水《こうずい》になると、幅《はば》十町もある楊《やなぎ》の生えた広い河原《かわら》が、恐《おそ》ろしく咆《ほ》える水で、いっぱいになってしまったのです。けれども水が退《ひ》きますと、もとのきれいな、白い河原があらわれました。その河原のところどころには、蘆《あし》やがまなどの岸に生えた、ほそ長い沼《ぬま》のようなものがありました。
 ——宮沢賢治「毒もみのすきな署長さん」より

◎小食は長生きのコツ?

 いろいろな長生きのコツがいわれているが、最新の実験データによれば、餌の量を通常の六〇パーセントにしたマウスは、通常のマウスより三〇パーセント程度長く生きるそうだ。
 サルを使った実験でも同様の結果が生まれるのだが、サルはさすがに餌の量が少ないことに不満を覚えるらしく、若々しいけれど不機嫌な顔つきのサルと、歳をとった機嫌のいいサルのグループが生まれるという。この話の真偽のほどは確かではない。
 が、いまさらこのような実験データを示されなくとも、先人はいつもいっていたではないか。腹八分目、と。
 我々はサルではなくヒトなのだから、若々しくかつ機嫌よく年を重ねていきたい。

2012年7月6日金曜日

7月6日

◎今日のテキスト

 虔十《けんじゅう》はいつも繩《なわ》の帯をしめてわらって杜《もり》の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。
 雨の中の青い藪《やぶ》を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔《か》けて行く鷹《たか》を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑うものですから虔十はだんだん笑わないふりをするようになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑えて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立っているのでした。
 ——宮沢賢治「虔十公園林」より

◎頼まれごとを忘れてしまう、あるいはできないことについての解決策(二)

 頼まれごとはもちろん、忘れようと思って忘れうわけではない。ついうっかり、とか、なにか事情があって不幸にも忘れてしまうのだ。頼まれごとをするとき、相手に約に立ちたくて、自分が相手に貢献したくて、引きうけるのだ。しかし、それがいま、約束をうっかり忘れてしまった。そのことに対する後悔と悲しみがあることを、まずしっかりと自覚する。
 つぎに、相手の感情を見る。怒っているのか、失望しているのか、がっかりしているのか。そしてその感情は相手のどのニーズから来ているのかを見る。
 すぎたことはもう取りもどしようがないけれじ、自分と相手の感情とニーズを大切に扱うことで、そこで喧嘩別れしてしまったり、気まずい関係にならないようにできる。

2012年7月5日木曜日

7月5日

◎今日のテキスト

一月五日
 朝起きると、ひどく咳が出る。烟草で咽喉を痛めているせいだ。おそく起きた朝ほど咳がひどいのは、その前夜おそくまで仕事をして烟草の量を過した兆しである。私の咳はかなり有名で、近所の子供はコンコンのおじさんと呼んでいる。老人臭くていけないが、烟草の量はなかなか減らないで困る。私が外出先から帰って来るときには、家に入らない前に咳でわかる、と亡妻はいっていたし、私が在宅か否かは咳が聞えるかどうかで判断することができる、と隣の人たちはいっている。そんなに咳をしていながら自分自身ではあまり気づかないということは、修身講話のひとつの例となり得る事実である。
二階の仕事部屋からふと外を見ると、凧がひとつ空に高く上っている。飛んでいるようでもあり、踊っているようでもあり、舞っているようでもあり、そのコミカルな姿態をしばらく眺める。空は曇って風が強い。
 ——三木清「思索者の日記」より

◎頼まれごとを忘れてしまう、あるいはできないことについての解決策(一)

 いろいろな仕事や用事を同時にたくさん抱えている人は、ついつい些細な用事を忘れてしまうことがある。その人にとってはたくさんの用事のひとつを忘れてしまっただけのことでも、相手にとって大事な約束の用事だったりする。
 そんなとき、相手は「こんなに大事なことを頼んだのに忘れてしまうなんて」と怒るだろうし、こちらは頼まれたことを忘れて申し訳ないという引け目を感じることがある。
 いずれも双方にとって悲しいことだ。これを解決する方法はないだろうか、かんがえてみよう。

2012年7月4日水曜日

7月4日

◎今日のテキスト

 鵙《もず》の声が鋭くけたたましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空ででもあるかのようにちかぢかと澄んで耳を突く。きょうは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下はまだ朝霧が立ちこめていたが、芋《いも》畑の向方《むこう》側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射《さ》して、栗拾いに駈けてゆく子供たちの影があざやかだった。そして見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しそうだった。芋の収穫はもうよほど前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で、光が流れるに従って白い煙が揺れた。万豊はそこで小屋掛の芝居を打ちたいはらだが、青年団からの申込みで来るべき音頭小唄《おんどこうた》大会の会場にと希望されて不承無承にふくれているそうだった。
 ——牧野信一「鬼涙村」より

◎マインドフルに生きるためのTODOリスト

 現代人は用事が多い。ただ生活をしていくだけなのに、あれもこれもとやるべきことに毎日追われている。人からの頼まれ事も多い。それらを忘れないように、いつも用事のことをかんがえていて、「心ここにあらず」のマインドレスの状態におちいってしまっている。
 それらの用事を一度全部、手帳に書きだしてみる。思いつくかぎりの頭のなかにある懸案事項を書きだしてみる。そしてそのことをいったん全部忘れてしまう。
 思い出す必要があれば、手帳を見ればいい。しかし、ふだんは忘れてしまっていていい。手帳に書いてあるのだから。そしてふだんは、「いまここ」に目をむけてみる。

2012年7月3日火曜日

7月3日

◎今日のテキスト

 御無沙汰《ごぶさた》をいたしました。今月の初めから僕《ぼく》は当地に滞在《たいざい》しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣《わけ》です。まだ誰《だれ》も来ていないので、淋《さび》しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。
 しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで違《ちが》うように思えます。
 ——堀辰雄『美しい村』より

◎音読療法は介護予防を推進する

 「介護予防」というかんがえかたがある。お年寄りが寝たきりになったり、介護を必要とする生活にならないように、元気なうちから予防し、長く健康にすごそう、というかんがえかただ。これは医療費や介護費用の大きな削減にもなるはずで、行政がさらに積極的に推進してほしい運動だ。
 音読療法はこの運動においてかなり効果的な役割をはたせるとかんがえている。
 健康法や予防法は毎日つづけることが大切で、習慣化することがのぞましい。音読療法は簡単な方法で呼吸筋や姿勢筋を整えたり鍛えたりできるので、毎日気楽につづけることができる。

2012年7月2日月曜日

7月2日

◎今日のテキスト

 私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴《そぼく》な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰《さた》とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす私は死ぬべき身だ。で、今日のうちに自分の魂の重荷をおろしておきたいのだ。
 ——エドガー・アラン・ポー「黒猫」(佐々木直次郎・訳)より

◎ボイスセラピストの資格

 音読療法の仕事はだれかのお役に立てることがうれしい。誇りをもてる職業だと思う。誇りをもって持続的に音読療法の仕事をしていく人が増えてくれるのは、私もとてもうれしいことだ。
 もちろん、まずは自分自身の心身のケアができて、安定した状態でクライアントと接することができることが必要なことはいうまでもない。
 そのことは、いろいろなことがつぎつぎとやってくる人生の荒波のなかでも、楽しみながらそれを乗り切っていけるスキルを身につけることでもある。

2012年7月1日日曜日

7月1日

◎今日のテキスト

 駅を出て二十分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣《いけがき》が見え始めるが、それでもその間には谷のように低まった処や、小高い山のだらだら坂などがあって人家らしいものは一軒も見当たらなかった。東京からわずか二十マイルそこそこの処であるが、奥山へはいったような静けさと、人里離れた気配があった。
 梅雨期にはいるちょっと前で、トランクを提《さ》げて歩いている尾田は、十分もたたぬ間にはやじっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。ずいぶん辺鄙《へんぴ》な処なんだなあと思いながら、人気の無いのを幸い、今まで眼深にかぶっていた帽子をずり上げて、木立を透かして遠くを眺《なが》めた。見渡す限り青葉で覆われた武蔵野で、その中にぽつんぽつんと蹲《うずくま》っている藁屋根《わらやね》が何となく原始的な寂蓼《せきりょう》を忍ばせていた。
 ——北條民雄『いのちの初夜』より

◎ボイスセラピストの資格

 2級ボイスセラピストの資格は、家族や友人など、身近な人に気楽に呼吸法や発声法を教えてあげられるスキルだが、1級だとグループワークができるようになる。
 学校や職場、老人ホームや趣味の集まり、あるいは被災地でのボランティア活動など、さまざまな活躍の場面がある。
 実際にすでに仕事として活動をはじめているボイスセラピストが何人かいる。