2012年6月30日土曜日

6月30日

◎今日のテキスト

 汪士秀《おうししゅう》は盧州《ろしゅう》の人であった。豪傑で力が強く、石舂《いしうす》を持ちあげることができた。親子で蹴鞠《しゅうきく》がうまかったが、父親は四十あまりの時銭塘江《せんとうこう》を渡っていて、舟が沈んで溺れてしまった。
 それから八、九年してのことであった。汪は事情があって湖南へいって、夜、洞庭湖《どうていこ》に舟がかりした。その時はちょうど満月の夜で月が東の方にのぼって、澄んで静かな湖の面は練ったようになっていた。汪は美しい月の湖上をうっとりと眺めていると、不意に五人の怪しい者が水の中から出て来て、持っていた大きな敷物を水の上に敷いたが、その広さは半畝《はんぽ》ばかりもあるものであった。
 ——蒲松齢《ほしょうれい》「汪士秀《おうししゅう》」(田中貢太郎・訳)より

◎音読療法を身につけようという人たち

 音読療法協会がおこなっているボイスセラピスト講座には、さまざまな立場の人たちがやってくる。
 すでに仕事をお持ちの方は、その仕事に役立てようとしてやってくる人が多い。お医者さん、ダンスの先生、造形アーティスト、歌手や朗読家、アナウンサーなど声の仕事の人、ヨガインストラクター、介護関係の仕事の方などなど。
 会社員や主婦の方も多い。そういう人は、いまのお勤めをやめることを前提にしていたり、主婦ではあるけれど自分なりのスキルを身につけて社会貢献したい、経済的にもある程度の自立をはたしたい、というニーズがあったりする。

2012年6月29日金曜日

6月29日

◎今日のテキスト

 むかしむかし、町といなかに、大きなやしきをかまえて、金の盆《ぼん》と銀のお皿《さら》をもって、きれいなお飾《かざ》りとぬいはくのある、いす、つくえと、それに、総金《そうきん》ぬりの馬車までももっている男がありました。こんなしあわせな身分でしたけれど、ただひとつ、運のわるいことは、おそろしい青ひげをはやしていることで、それはどこのおくさんでも、むすめさんでも、この男の顔を見て、あっといって、逃げ出さないものはありませんでした。
 ——シャルル・ペロー「青ひげ」(楠山正雄・訳)より

◎音読の効用(二)

 音読には次のみっつのねらいがある。

一 他人が書いた文章を読みあげることで自分の思考を追いやり、マインドフルネスにいたる。
二 セラピストと声を合わせて読むことで、セラピストの落ち着いた呼吸や身体の状態を自然に映しとって、心身の落ち着きをえる。
三 自分の声を使って表現することで、いきいきした心身の喜びを感じる。

 とくに二と三については大変有効であり、実際にやってみるとクライアントがどんどん笑顔になっていくのを目撃できる。
 一については、充分にマインドフルネスの準備ができていない者がやると、文章自体の言葉やイメージにとらわれ、逆効果になることがあるので要注意。
 その場合は、もう一度呼吸法から繰り返して、心身の準備をきちんとする必要がある。

2012年6月28日木曜日

6月28日

◎今日のテキスト

 海は荒海 向こうは 佐渡よ
 すずめ鳴け鳴け もう日は暮れた
 みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

 暮れりゃ砂山 汐鳴りばかり
 すずめちりじり 又風荒れる
 皆なちりじり もう誰も見えぬ 

 ——北原白秋「砂山」

◎音読の効用(一)

 音読療法はさまざまな療法や医療のノウハウ、古くからある主に東洋における民間の健康法や古武術、音楽や修行僧の呼吸法など、役に立つものをいいとこ取りし、そのエッセンスをさらにだれにでも使いやすくアレンジしたもので体系化されている。
 まあ、寄せ集めといえばそのとおりだ。
 が、そのキモである「音読」の部分は、ほかの療法にはない部分だといえる。

2012年6月27日水曜日

6月27日

◎今日のテキスト

 ぼくが今より若くて今より傷つきやすかった時代に父から受けた一種の忠告を、ぼくは何度も心の中で繰りかえしながら生きてきた。
 「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでもね、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」
 父はそれ以上何も言わなかったものの、ぼくと父とは、他人行儀なやりかたで異常なほど意思を伝え合ってきたから、父はこの言葉にもっと大きな意味を含めているのがよく分かった。
 ——スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(枯葉・訳)より

◎介護予防という考え方(三)

 音読療法は道具もいらないし、方法もシンプルなので、年配者にも簡単に覚えてもらって実行してもらうことができる。
 できれば毎日、呼吸法、発声、そして音読というパターンでやれるように習慣づけてもらうと効果的だ。ラジオ体操のように。
 音読療法を実践すると、反芻思考を断ち切り、「いまここ」の自分自身に意識を向けてマインドフルの状態になりやすくなる。調子がよくても悪くても、自分自身を大切にして、いきいきとすごす時間が多くなるだろう。趣味や交際に積極的になり、充実した毎日をすごせるようになる。
 そのことが結果的に介護を予防することに大きく役立つのだ。

2012年6月26日火曜日

6月26日

◎今日のテキスト

 回れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火《ともしび》うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来《ゆきき》にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前《だいおんじまえ》と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社《みしまさま》の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦《いへ》もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商いはかつふつ利かぬ処とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形《なり》に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽《でんがく》みるやう、
 ——樋口一葉『たけくらべ』より

◎介護予防という考え方(二)

 自分のことを振り返ってみてもそう思うが、年老いて介護が必要になったり寝たきりになるのはうれしくない。
 もちろん人は元気にしていても必ずだれかのお世話にならずには生きていけない社会的動物であるわけで、げんにいまも寝たきりになっていたり、車椅子の生活をしている方々のことを否定するわけではない。が、できればいまの状態をなるべく維持して、元気に年老いていきたいと思うのだ。
 そのためにももっと社会全体で介護予防という考え方と、具体的な運動が普及するのが望ましい。音読療法はそのもっとも手軽で、もっとも効果的な方法のひとつであることはまちがいない。

2012年6月25日月曜日

6月25日

◎今日のテキスト

 よく田舎にある、野っ原の真ん中に、灌木だの歯朶だのに、穴の縁を茂らせて、底には石や土が、埋めかけて匙を投げてある、あの古井戸の底になら、埃が溜ったって、別に面白くも可笑しくもない。
 ところが、私の今いおうとしている井戸は、一方には夫婦と三人の子供、もう一方には夫婦と二人の子供が、現在住んでいる、その共通の井戸の事なのである。
 その共同の井戸に、しかも蓋がしてあるのに、埃が底に溜ってしまったのである。
 空気だの、日光だの、水などというものは、そいつがふんだんにある場合には、いささかも不自由を感じないし、従って有難味も分らないものだが、一旦、無いとなると、さあ事だ。
 ——葉山嘉樹「井戸の底に埃の溜った話」より

◎介護予防という考え方(一)

 現代朗読協会の仲間の日榮さんが代表をつとめる「アート・ビート・ハート」というNPOは、介護予防のためのアーティストを育成する事業をおこなっている。
 私は老人ホームに行く機会が多く、特別養護老人ホームでの重度の認知症や寝たきりの方々を見たり、デイサービスに通ってこられる要介護のお年寄りを見ることが多い。
 介護予防というのは、お年寄りがそうならないようにするための健康維持法をおこなうサービスのことだ。
 音読療法はこれにうってつけの方法ではないだろうか。

2012年6月24日日曜日

6月24日

◎今日のテキスト

 夕方、五時頃うかがいますという電話であったので、きんは、一年ぶりにねえ、まァ、そんなものですかといった心持ちで、電話を離れて時計を見ると、まだ五時には二時間ばかり間がある。まずその間に、何よりも風呂へ行っておかなければならないと、女中に早目な、夕食の用意をさせておいて、きんは急いで風呂へ行った。別れたあの時よりも若やいでいなければならない。けっして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆっくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になったガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赤くしびれて来た。
 ——林芙美子「晩菊」より

◎自分が参加する組織に貢献すること

 ある組織に参加しているとき、ほかの人が運営などにたくさん貢献しているのを見て、自分はなにも貢献できていないと引け目に感じることがある。後ろめたい気分になる。
 しかし、そんな必要はない。
 貢献したい人は、自分がやりたくて貢献しているわけだし、貢献したいのにできない自分はそれなりの事情があるのだ。いずれタイミングが来れば喜んで貢献できる時が来る。
 そういった人とのつながりを切ってしまうのは、貢献できていない人を「あんたなにもしてないくせに」と責める言葉だ。その言葉をいう前に、その人のニーズを共感的な言葉で聞いてみるといい。大事なつながりを切らなくてすむだろう。

2012年6月23日土曜日

6月23日

◎今日のテキスト

 着ものをきかえようと、たたんであるのをひろげて、肩へかけながら、ふと、いつものことだが古への清少納言のいったことを、身に感じて袖に手を通した。
 それは、雨の降るそぼ寒い日に、しまってあった着るものを出してひっかけると、薄い汗の香《か》が鼻をかすめると、その、あるかなきかの、自分の汗の匂いの漂よいと、過ぎさる夏をなつかしむおもいを、わずかの筆に言い尽してあるのを、いみじき言いかただと、いつでも夏の末になると思い出さないことはない。何か、生という強いものを、ほのかななかにはっきりと知り、嗅ぐのだった。
 ——長谷川時雨「きもの」より

◎過去のあやまちを責める言葉

 しばしばあることだが、自分がおかしたミスについて、
 「あんたがあのときあんなことをしたから、こんなことになったのよ」
 と責められることがある。
 とてもつらいことだが、そのとき、その言葉の内容について一切聞く必要はない。聞くのは内容ではなく、その言葉がどのような感情(調子やニュアンス)で発せられているか、ということだ。
 相手の感情を見て、それがどのようなニーズから生まれているのか推測できたとき、相手に共感できて、相手が敵=自分を責める人でないように見えはじめる。

2012年6月22日金曜日

6月22日

◎今日のテキスト

 馬車の中で
 私はすやすやと眠ってしまった。
 きれいな婦人よ
 私をゆり起してくださるな
 明るい街燈の巷《ちまた》をはしり
 すずしい緑蔭の田舍をすぎ
 いつしか海の匂いも行手にちかくそよいでいる。
 ああ蹄《ひづめ》の音もかつかつとして
 私はうつつにうつつを追う
 きれいな婦人よ
 旅館の花ざかりなる軒にくるまで
 私をゆり起してくださるな。
 ——萩原朔太郎『青猫』より「馬車の中で」

◎感情を客観的に見る(三)

 演劇、音楽、美術、ダンス、朗読、小説など、表現活動をする過程ではかならず、他人から「評価」を受けることがある。表現活動といわなくても、仕事や勉強、家事といった活動においてもたえまなく評価を受ける。
 よい評価ならうれしいが、悪い評価を受けると落ちこんでしまいがちだ。
 そのとき、自分に向けられた評価の内容を見ずに、相手の感情を見る。相手はどのような感情を持ちながらその評価の言葉を発しているのか。そしてその感情からどのような相手のニーズを推察することができるか。
 相手のニーズにつながれれば、どんな評価もこわくなくなる。

2012年6月21日木曜日

6月21日

◎今日のテキスト

 ささの葉 サラサラ
 のきばに ゆれる
 お星さま キラキラ
 金銀砂子《すなご》

 五色《ごしき》の たんざく
 わたしが 書いた
 お星さま キラキラ
 空から 見てる
 ——権藤はなよ「七夕さま」より

◎感情を客観的に見る(二)

 自分の感情は自分のニーズを示しているメッセージだ。
 たとえば、台風が近づいているときの「不安」な気持ちは、自分の「安全」のニーズがおびやかされていることによって生まれているのかもしれない。
 台風をかいくぐって無事に家にたどりついたときの「安心」は、安全のニーズが満たされたことによって生まれたのかもしれない。
 感情をマインドフルに見ることで、自分のニーズを知ることができる。そのことによって落ちつくことができるし、またニーズを満たすための具体的な行動を起こすこともできる。

2012年6月20日水曜日

6月20日

◎今日のテキスト

 春のあたたかい日のこと、わたし舟《ぶね》にふたりの小さな子どもをつれた女の旅人《たびびと》がのりました。
舟《ふね》が出ようとすると、
 「おオい、ちょっとまってくれ。」
 と、どての向こうから手をふりながら、さむらいがひとり走ってきて、舟にとびこみました。
 舟《ふね》は出ました。
 さむらいは舟のまん中にどっかりすわっていました。ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
 黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑《わら》いました。
 ——新美南吉「飴だま」より

◎感情を客観的に見る(一)

 昨日は2級ボイスセラピスト講座の初めての銀座教室での開催だった。
 この時期には珍しく、台風4号が本州を上陸して、関東地方にもどんどん近づいてくるなかでの講座だった。
 夜の部が終わるのが午後9時近くだったので、電車が動いて無事に世田谷まで帰れるのかどうか不安だった。そういう不安な感情を、マインドフルに客観的に見ることができるようになれば、人生はずいぶん楽になる。
 自分がいまどういう感情に支配されているのか、その感情はどういうニーズから来ているのか、認識できれば、落ち着いて対処できるようになるのだ。

2012年6月19日火曜日

6月19日

◎今日のテキスト

 卯の花の におうかきねに
 時鳥《ほととぎす》 早も来鳴きて
 しのび音もらす 夏は来ぬ

 五月雨の そそぐ山田に
 早乙女が 裳裾ぬらして
 玉苗植うる 夏は来ぬ

 橘の かおる軒ばの
 窓ちかく 蛍とびかい
 おこたり諌《いさ》むる 夏は来ぬ

 楝《おうち》散る 川辺の宿の
 門遠く 水鶏《くいな》声して
 夕月涼しき 夏は来ぬ

 五月闇 蛍とびかい
 水鶏《くいな》鳴き 卯の花さきて
 早苗植えわたす 夏は来ぬ

 ——佐々木信綱「夏は来ぬ」より

 ◎音読療法が目指すところ

 さまざまなセラピーがあるが、音読療法もそのひとつであることはまちがいない。ただし、音読療法は明確な指標を持っている。
 実証的で客観的、そして論理的であること。
 呼吸法や発声などさまざまな手法をもちいるが、そのすべてにおいて実証的に効果を確認していく。確認も主観ではなく、可能なかぎり客観的な視点に置いておこなう。
 想像や空想ではなく、だれもが共有できる論理にもとづいている方法で確立されているかどうかを、常に検証している。

2012年6月18日月曜日

6月18日

◎今日のテキスト

 息が切れたから、立ち留まって仰向くと、火の粉《こ》がもう頭の上を通る。霜《しも》を置く空の澄み切って深い中に、数を尽くして飛んで来ては卒然《そつぜん》と消えてしまう。かと思うと、すぐあとから鮮《あざやか》なやつが、一面に吹かれながら、追《おっ》かけながら、ちらちらしながら、熾《さかん》にあらわれる。そうして不意に消えて行く。その飛んでくる方角を見ると、大きな噴水を集めたように、根が一本になって、隙間《すきま》なく寒い空を染めている。二三間先に大きな寺がある。長い石段の途中に太い樅《もみ》が静かな枝を夜《よ》に張って、土手から高く聳《そび》えている。火はその後《うしろ》から起る。黒い幹と動かぬ枝をことさらに残して、余る所は真赤《まっか》である。火元はこの高い土手の上に違《ちがい》ない。もう一町ほど行って左へ坂を上《あが》れば、現場《げんば》へ出られる。
 ——夏目漱石『永日小品』「火事」より

◎いろいろなセラピー

 世の中にはさまざまなセラピー(民間療法)がある。
 もちろん音読療法もそのひとつなのだが、有名なものでは音楽療法(ミュージックセラピー)がある。精神科治療の現場で古くから使われていてよく知られている箱庭療法、といったものもある。それに近いものでは、フラワーセラピーもある。つまり自分でなにかを作ったり表現したりすることで治療効果をねらうものだ。
 アロマセラピー、森林セラピー、カラーセラピー、あと具体的な内容は私もわからないがタスクセラピー、メークセラピー、書セラピー、禁欲セラピー、股関節セラピー、モーツアルトセラピーなんてものまである。

2012年6月17日日曜日

6月17日

◎今日のテキスト

 海にいるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にいるのは、
 あれは、浪ばかり。

 曇った北海の空の下、
 浪はところどころ歯をむいて、
 空を呪《のろ》っているのです。
 いつはてるとも知れない呪。

 海にいるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にいるのは、
 あれは、浪ばかり。

 ——中原中也『在りし日の歌』より「北の海」

◎動きながら読んでみる、いろいろな場所で読んでみる

 海をながめているとき、自分の身体はどんな感じになっているだろうか。
 山を登っているとき、満員電車に乗っているとき、料理を作っているとき、お風呂にはいっているとき、自分の身体がどんな感じになっているのか、繊細に観察してみる。
 それぞれ身体の感じが違っているかもしれない。その違った感じの身体つきで、なにかを読んでみる。すると違った感じの声や表現が出てくるかもしれない。

2012年6月16日土曜日

6月16日

◎今日のテキスト

 趙の邯鄲の都に住む紀昌といふ男が、天下第一の弓の名人にならうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衞に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遙々飛衞をたずねてその門に入った。
 飛衞は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に歸り、妻の機織臺の下に潛り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡《まねき》が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようといふ工夫である。理由を知らない妻は大に驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。いやがる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。
 ——中島敦「名人伝」より

◎子どもたちは元気だった

 墨田区の小学校で音読授業をしてきた。
 二年生のふたクラスでそれぞれおこなってきたのだが、ひとつは大変元気で、奔放で、ある意味収拾がつかなくなって困るほどだった。もうひとクラスはおとなしく、統制が取れていて、こちらの話をきちんと聞くことができる。
 さて、このどちらがよいだろう。
 もちろん大人の都合では後者のほうがよいに決まっている。進行するのは楽だ。しかし、はたしてそれでいいのだろうか。
 私は収拾がつかなくなって、大人が困り果ててしまうような前者のような子どもたちのほうが好きだ、と感じていた。

2012年6月15日金曜日

6月15日

◎今日のテキスト

 国府台から中山を過ぎて船橋の方へと松林に蔽われた一脈の丘陵が延長している。丘陵に沿うてはひろびろした平野があるいは高くあるいは低く、ゆるやかに起伏して、単調な眺望にところどころ画興を催すに足るべき変化を示している。
 市川に移り住んでから、わたくしはほとんど毎日のようにところを定めずそのあたりの田舎道を歩み、人家に遠い松林の中または窪地の草むらに身を没して、青空と雲とを仰ぎ、小鳥と風のささやきを聞き、初夏の永い日にさえその暮れかけるのを惜しむようなこともあった。
 ——永井荷風「畦道」より

◎あらゆる年代の人に音読を

 音読はさまざまな年齢の人に効果がある。
 普段からしゃべってるじゃない、特別に音読なんていわなくても、という人もいるかもしれないが、意識して呼吸をしたり、声を出したり、そのことで自分の身体のことに気づいたり、ということは案外やらないものだ。
 音読療法士(ボイスセラピスト)はいろいろな場所に出かけていく。老人ホーム、東北の被災地、職場のグループ、そしてもちろん個人相手にも。
 今日はこれから都内の小学校に行って、二年生のクラスで音読エチュードの授業をしてくる。子どもたちだけがそうではないが、音読エチュードをやるにつれみんなの顔がどんどんイキイキと元気になっていくのを見るのが、私たちのやりがいでもある。

2012年6月14日木曜日

6月14日

◎今日のテキスト

 むかしある国の田舎にお金持の百姓が住んでいました。百姓には兵隊のシモン、肥満《ふとっちょ》のタラスに馬鹿のイワンという三人の息子と、つんぼでおしのマルタという娘がありました。兵隊のシモンは王様の家来になって戦争に行きました。肥満《ふとっちょ》のタラスは町へ出て商人になりました。馬鹿のイワンと妹のマルタは、家《うち》に残って背中がまがるほどせい出して働きました。兵隊のシモンは高い位と広い領地を得て、王様のお姫様をお嫁さんに貰いました。お給金もたくさんだし領地から上《あが》る収入《みいり》も大したものでしたが、彼はそれを、うまくしめくくっていくことが出来ませんでした。おまけに主人がもうけたものをお嫁さんが滅茶に使ってしまうので、いつも貧乏していなければなりませんでした。
 ——トルストイ「イワンの馬鹿」(菊池寛・訳)より

◎いろいろなセラピー

 セラピーはなにかの病理を治療・治癒する施術のことで、さまざまなものがある。〇〇療法や〇〇テラピーとも称される。
 音楽療法、アロマテラピー、森林セラピー、アートセラピー、ふっとセラピー、断捨離セラピー、ヒプノセラピー、カラーセラピー、アニマルセラピー、その他たくさんの種類がある。
 音読療法=ボイスセラピーもその一種だが、もちろん独自の方法論と特徴がある。
 このような補完医療は、現代社会において今後ますます重要な位置を占めていくものと予想される。

2012年6月13日水曜日

6月13日

◎今日のテキスト

 善《ぜん》ニョムさんは、息子達夫婦が、肥料を馬の背につけて野良へ出ていってしまう間、尻骨の痛い寝床の中で、眼を瞑《つぶ》って我慢していた。
 「じゃとっさん、夕方になったら馬ハミ(糧)だけこさいといてくんなさろ、無理しておきたらいかんけんが」
 出がけに嫁が、上《あが》り框《かまち》のところから、駄目をおして出ていった。
 「ああよし、よし……」
 善ニョムさんは、そう寝床のなかで返事しながらうれしかった。いい嫁だ。孝行な倅《せがれ》にうってつけの気だてのよい嫁だ。老人の俺に仕事をさせまいとする心掛《こころがけ》がよくわかる――。
 ——徳永直「麦の芽」より

◎筋トレ

 動物は筋トレをしない。と思う。
 猫を見ていると、子猫のころはしきりに遊んで、ひょっとしてそれは身体能力を鍛えるための行為ではないかと思うことがあるけれど、成長してしまうとほとんどそのようなことはしない。無駄な動きはいっさいしない。
 一方、人は大人になっても、せっせと走ったり、ジムに通ったり、ウォーキングしたりと、自分の身体能力を維持することにつとめる。
 人は思考能力があり、自分の身体能力がそれに比して衰えていくことに抵抗したいのかもしれない。たしかに、衰えていく筋力は、トレーニングによってしか回復できない。

2012年6月12日火曜日

6月12日

◎今日のテキスト

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦《かっせん》である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱《ぜいじやく》な五穀蔬菜は、野草《やそう》に杜《ふさ》がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導《さいせいほだう》は人間の道」で、ここに人間と草の戦闘が開かるるのである。
 老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗《じゅうのう》でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈に攻め寄する。飯焚《めした》く時間を惜んで餅を食ひ、茶もおちおちは飲むで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
 「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
 ——徳富蘆花「草とり」より

◎息を止めてみる(三)

 血中酸素濃度をあげたあとは、だれでも数十秒呼吸を止めることができるだろう。
 静かに座って、息を止め、身体のなかを観察する。
 私の場合は、窓から差しこむ陽の光のなかを、ほこりがゆっくりと舞っているのが見え、それが静かに降りていくようなイメージを感じる。そのイメージは人それぞれだろうと思う。
 とにかく、自分の身体が鎮静化していくようすを観察してみる。
 最後に、苦しくなる前に自然呼吸にもどし、またゆっくりと普通に息をする。

2012年6月11日月曜日

6月11日

◎今日のテキスト

 今からもう二十余年も昔の話であるが、ドイツに留学していたとき、あちらの婦人の日常生活に関係した理化学的知識が一般に日本の婦人よりも進んでいるということに気のついた事がしばしばあった。例えば下宿のおかみさんなどが、呼鈴《よびりん》や、その電池などの故障があったとき少しの故障なら、たいてい自分で直すのであった。当時はもちろん現在の日本でも、そういう下宿のお神さんはたぶん比較的に少ないであろうと思われる。室内電燈のスウィッチの、ちょっと開けてみれば分るような簡単な故障でも、たいてい電燈会社へ電話をかけて来てもらうのが普通であるらしい。
 些細なようなことで感心したのは、風呂を立ててもらうのに例えば四十一度にしてくれと頼めばちゃんと四十一度にしてくれる。四十二度にと云えば、そんなに熱くてもいいのかと驚きはするが、ちゃんと四十二度プラスマイナス〇・何度にしてくれるのである。
 ——寺田寅彦「家庭の人へ」より

◎息を止めてみる(二)

 意識的に息を止めるには、まず血中酸素濃度をあげる。そうすれば、ただ息を止めるより長く息を止めていられる。
 血中酸素濃度をあげるには、すばやく浅い呼吸を繰り返す。マラソンをしているときのイメージで「吸って」「吐いて」をすばやく数十回繰り返す。
 血中酸素濃度があがったくると、脳が「過酸素」の状態になり、頭がクラクラすることがあるが、そのときにはちょっと休むとよい。別段、大きな異常というわけではないので、過剰な心配は無用だ。
 そうやって血中酸素濃度をあげてから、息を止めてみる。
 呼吸の止まった静かな自分の身体の状態を観察する。

2012年6月10日日曜日

6月10日

◎今日のテキスト

 松原遠く 消ゆるところ
 白帆の 影は 浮かぶ
 干し網浜に 高くして
 カモメは低く 波に飛ぶ
 見よ昼の海 見よ昼の海

 島山闇に 著(しる)きあたり
 漁り火 光淡し 寄る波岸に
 緩くして 浦風軽く いさご吹く
 見よ夜の海 見よ夜の海

 ——作者不詳「海」(文部省唱歌)より

◎息を止めてみる(一)

 生活のなかで「息を止める」という場面は、通常ではあまりうにないように思うかもしれないが、実際には人はしばしば息を止めている。自分が気づかないだけで、緊張したり危険を感じたり、強いストレスがかかったりすると、無意識に息を止めている。だれかと話をしたり、なにかを見たりするときにも、息を止めていることがある。
 無意識に息を止めてしまうのではなく、意識的に息を止める練習をすることで、息を止めたときの自分の身体の状態を客観的に観察できる。

2012年6月9日土曜日

6月9日

◎今日のテキスト

 それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。人々の前にはあらゆるものがあるのでもあれば、人々の前には何一つないのでもあった。人々は皆真直に天国へ行きつつあるのでもあれば、人々は皆真直にその反対の道を行きつつあるのでもあった。――要するに、その時代は、当時の最も口やかましい権威者たちのある者が、善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解さるべき時代であると主張したほど、現代と似ていたのであった。
 ——チャールズ・ディッケンズ『二都物語』(佐々木直次郎・訳)より

◎夏風邪

 風邪をひいてしまった。
 音読療法のおかげでずいぶんしばらく、風邪とは無縁だったのだが、忙しさがつづき、そのことを含めてストレスが増えて、自律神経のバランスがくずれ、免疫力が落ちたのだろう。
 ひいてしまったらやむをえない。とにかく安静にして、しっかり水分補給をし、食事は控えめにしたいのだが、そういうときにかぎって約束があったり、しなければならないことがあったりする。
 とにかく、夜は早めに休んで、自分の治癒力をめいっぱい働かせられる環境を身体に与えてやる。風邪では医者には行かないし、薬も飲まないことにしている。

2012年6月8日金曜日

6月8日

◎今日のテキスト

 客はもうとうに散ってしまった。時計が零時半《れいじはん》を打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。
 主人は呼鈴《よびりん》を鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。
 「じゃ、そう決りましたね」と主人は、一層ふかぶかと肘掛椅子《ひじかけいす》に身を沈めて、葉巻《はまき》に火をつけながら言った。
 「めいめい、自分の初恋《はつこい》の話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ」
 セルゲイ・ニコラーエヴィチというのは、まるまると肥《ふと》った男で、ぽってりした金髪《きんぱつ》・色白の顔をしていたが、まず主人の顔をちらと眺《なが》めると、眼《め》を天井《てんじょう》の方へ上げた。
 ——ツルゲーネフ『はつ恋』(神西清・訳)より

◎自分の場所

 人はだれかとつながりたい、自分を理解してもらえる人といたい、安心できるコミュニティに属していたい、というニーズがある一方で、ひとりでいたい、だれにも気を使わずに自由にすごしたい、ひとりになれる場所がほしい、というニーズもある。
 ひとりになれる場所がなくていつも家族や知り合いがいっしょにいるような環境に長くいると、だんだん気詰まりになってくる。
 子どものころ、私はたくさん友達がいて、いつもいっしょに遊んでいたが、同時によく釣り竿をかついでひとりでフナ釣りに行き、一日中浮きをながめていたことを思いだした。大人になるとなかなか意識してそういう時間を作ることはしないものだ。

2012年6月7日木曜日

6月7日

◎今日のテキスト

 オーレンカという、退職八等官プレミャンニコフの娘が、わが家の中庭へ下りる小さな段々に腰かけて、何やら考え込んでいた。暑い日で、うるさく蠅《はえ》がまつわりついて来るので、でももうじき夕方だと思うといかにもうれしかった。東の方からは黒い雨雲がひろがって来て、時おりその方角から湿っぽい風が吹いていた。
 ——アントン・チェーホフ「可愛い女」(神西清・訳)より

◎東北被災地支援ツアーふたたび

 2011年内に三谷産業株式会社の全面的バックアップをいただいて、東北被災地ツアーを2回、計4日間、延べ7回の音読ケアワークを、小学校の体育館や仮設住宅の集会所をお借りして実施した。
それを、今年もまたやることになった。
 もう夏である。いろいろと状況が変わっている。被災地の様子も気になっていた。
 一番状況の変化が大きいのは、なにより私たち自身だろう。
 昨年は現代朗読協会のメンバーが慣れない音読エチュードや唱歌で皆さんといっしょにあれこれやってきた。とても喜んでいただいたのが励みとなった。
 今年は音読療法士が誕生していて、いわば音読ケアワークの専門家がいる。とても心強い。

2012年6月6日水曜日

6月6日

◎今日のテキスト

 山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木の電車停留場の崖下を地響きさせて通るころ、千駄谷の田畝《たんぼ》をてくてくと歩いていく男がある。この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘《でいねい》の深い田畝道《たんぼみち》に古い長靴を引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を阿弥陀にかぶって塵埃《じんあい》を避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお役所が遅くなりますなどと春眠いぎたなき主人を揺り起こす軍人の細君もあるくらいだ。
 ——田山花袋「少女病」より

◎不機嫌な顔は「話聞いて」のメッセージ

 不機嫌な顔をしている人がいるとする。
 その人は実は、自分が不機嫌であるということを精一杯、まわりの人に表現しているのだ。つまり、自分が不機嫌であるというメッセージを発信している。
 そのニーズはなんだろう。
 かまってもらいたい、かもしれない。自分のことを尊重してくれ、かもしれない。自分の大変さを理解してもらいたい、かもしれない。
 仕事から帰ってきた一家の主人が不機嫌であるのも、学校から帰ってきた子どもが不機嫌であるのも、ひょっとして「自分を見て」「自分の大変さを理解して」「自分の話を聞いてほしい」という強烈なメッセージなのかもしれない。

2012年6月5日火曜日

6月5日

◎今日のテキスト

  このみちや
  いくたりゆきし
  われはけふゆく

  しづけさは
  死ぬるばかりの
  水がながれて

 九月九日 晴、八代町、萩原塘、吾妻屋(三五・中)

 私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
 七時の汽車で宇土へ、宿においてあった荷物を受取って、九時の汽車で更に八代へ、宿をきめてから、十一時より三時まで市街行乞、夜は餞別のゲルトを飲みつくした。
 同宿四人、無駄話がとりどりに面白かった、殊に宇部の乞食爺さんの話、球磨の百万長者の欲深い話などは興味深いものであった。
 ——種田山頭火『行乞記』より

◎めまい

 めまいにはさまざまな要因があり、素人診断は危険なので、めまいを感じたらすぐに専門医に診てもらったほうがいいのだが、その要因のひとつに「ストレス」がある。
 ある専門医はストレスによるめまいを根除しようと、西洋医学的対症療法のほかに、みずからヨガのインストラクターの資格を取得し、ストレス対策の講座を自分の医院で開いている。
 ようするに呼吸法で、音読療法でも同等、あるいはそれ以上の効果を期待できると思われる。

2012年6月4日月曜日

6月4日

◎今日のテキスト

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑《おか》しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈《はず》だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房《にょうぼう》を貰《もら》い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃《ちかごろ》風の便りにききました。
時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 ——田中英光『オリンポスの果実』より

◎「ねばならない」について

 なにかをするとき、「〜しなければならない」と思ってするのと、「〜したい」と思ってやるのとでは、結果と過程が全然ちがってくる。
 仕事に「行かなきゃならない」と思って出かけるのと、仕事に「行きたい」と思って出かけるのとでは、内容が全然ちがってくるのは容易に想像できるだろう。
「ねばならない」と思うとき、それは「強制」の意識が働いている。だれかからの強制であったり、自分自身であったり。しかし「したい」と思うとき、それは自分自身のなんらかのニーズにつながっている。
「仕事に行きたい」と思うのは、たとえば経済的な余裕によって自分の生活が安定したり安全を確保したり、家族がくつろぐ場を確保するためであったり、あるいは自分がやりたいことをやれる時間やお金を確保するためであったり。そのニーズがはっきりしていれば、「ねばならない」が「したい」に変化する。

2012年6月3日日曜日

6月3日

◎今日のテキスト

 私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちょっと調べてみて下さいまし。あるいは私はその中に、はいっているかも知れません。もう私は、くたくたに疲れて、自分がいま誰の懐の中にいるのやら、あるいは屑籠の中にでもほうり込まれているのやら、さっぱり見当も附かなくなりました。ちかいうちには、モダン型の紙幣が出て、私たち旧式の紙幣は皆焼かれてしまうのだとかいう噂も聞きましたが、もうこんな、生きているのだか、死んでいるのだかわからないような気持でいるよりは、いっそさっぱり焼かれてしまって昇天しとうございます。
 ——太宰治「貨幣」より

◎感覚遮断

 生物は感覚器官のひとつが損なわれると、別の感覚を鋭敏にさせて損なわれた感覚を補おうとする。
 人の場合、たとえば視力を奪われた人は、聴力、触覚、嗅覚などを鋭敏にさせて、それまでと支障なく活動しようとする。
 この仕組みを利用して、「感覚遮断」を意図的におこなうことで感覚を鋭敏にすることができる。朗読や音読では聴覚が非常に重要な感覚であるが、これをより鋭敏にするために、視覚を遮断する。「遮断」というとおおげさなだが、ようするに目を閉じてみるのだ。
 意識的に目を閉じ、物音に感覚を集中することで、簡単に聴覚を鋭くすることができる。

2012年6月2日土曜日

6月2日

◎今日のテキスト

 あめあめ ふれふれ かあさんが
 じゃのめで おむかい うれしいな
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 かけましょ かばんを かあさんの
 あとから ゆこゆこ かねがなる
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 あらあら あのこは ずぶぬれだ
 やなぎの ねかたで ないている
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 かあさん ぼくのを かしましょか
 きみきみ このかさ さしたまえ
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 ぼくなら いいんだ かあさんの
 おおきな じゃのめに はいってく
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 ——北原白秋「あめふり」より

◎「日めくりスケッチ展」の終わりと朗読ライブ

 先月22日から下北沢・音倉でおこなっていた「日めくりスケッチ展」は、明日6月3日が最終日となる。それに合わせて現代朗読協会のメンバーに協力してもらって、「日めくり朗読ライブ」をおこなうことになった。
 ここで毎日紹介しているさまざまな文学作品や童謡・唱歌の歌詞などを、次々と脈絡なく、現代朗読のエチュード的パフォーマンスに仕立てて、万華鏡のように展開する予定だ。

 詳細は<a href="http://juicylab.blogspot.com/2012/05/blog-post_30.html" target="blank">こちら</a>。

2012年6月1日金曜日

6月1日

◎今日のテキスト

 白い雲。ぽっかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いている。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光っている有様は、近代的な都市風景だと人は言っている。よろしい。我々はその「天勝大奇術」または「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどって下りて行こう。歩いている人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがっていて、風に大様に揺れている。これが我々を導いてくれるだろう。すると、我々は思いがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇っているかなぞと考えて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。
 ——武田麟太郎「日本三文オペラ」より

◎自分のことを大事にする(二)

 社会生活のなかでは、さまざまな文脈のなかで自分のニーズを無視して行動することが多い。
 本当は休息のニーズがあるのに、上司から期限を切られて命じられた仕事があるために、自分のニーズを無視して無理に仕事をしてしまう。
 そのとき、ちょっと立ちどまって、自分の休息のニーズがどのくらい大切なのか、もしとても大切なのだとしたら、そのことを上司に伝えることはできないのか、また上司とそのニーズを共有して、結果的に仕事をよい結果に導く方策はないのかなど、自分を大事に扱うことから出発していろいろなことが結果的によい方向にいくことを深く考え、伝えることができる。